エリジウム的なるもの、の経緯来歴・メモ

 世間的な評判や評価、風評なども含めたゆるふわな風向きだけに過敏に反応しなければおのれの地位が保てないと感じる――要はポピュリズムなんだろうが、そういう心性にとって、広報・宣伝に特化したように見える情報業者は皮膚のように一体化して貼りつくものになっているらしい。

 いわゆる広告代理店その他の「広報・宣伝」関連の業者やコンサル、エージェントの類から、より抽象化したところではいまどきの情報環境、web介してのやりとりが24時間化しているそれ自体が、すでに自意識の皮膚や神経、リンパ節のように疑似生理的な水準のはたらきを持つようになっている印象。

 「政治」も「経済」も「法」も、これまでそのような語彙と概念とで制御してきたつもりのものが、すでにそれらを広く覆っている情報環境のありようの側に癒着させられてしまっていて、その「広報・宣伝」的な性質を本質として持ってしまったいまどき情報環境の疑似生理的・生物的なありようこそが「政治」も「経済」も「法」も、もちろん「文化」「社会」の水準をも含めた「国家」「国体」をも、先廻りして規定するようになっている可能性。

 本邦的な「新自由主義」的なるもの、その脈絡での「グローバリズム」的なるもの、の受容について。それらと、昨今の蠱毒エリジウム的言語空間ネイティヴ「勝ち組」的なるもの、との通底、およびその思想史的経緯来歴について。

 近世以来の漢文・漢学的脈絡の「教養」を前提に良くも悪くもしていた世代の「論理」や「概念」のハンドリングの仕方の中に、昨今のそういう「新自由主義」的「グローバリズム」的蠱毒エリジウムな言語空間とよく似た妙な「論理」性、硬直した「正しさ」大正義的なものが宿っていた可能性。

 たとえば、そういう意味からの、北一輝の読み直しの試み、とか。