映像表現とSFの関係・メモ

 富野さんもそうですが、根っからの映像作家は、まずすばらしい絵が頭に浮かぶんです。そのすばらしい絵をどうやってフィルムにしていくかが勝負になります。すると、その妨げになってくるのが考証なんです。すばらしい絵をスポイルすることがしばしばありますから。そこで葛藤が生じるんですよ。→

 SFの科学考証って突き詰めていくほどエンタメ性から離れていくものだと思っていて、それをどこで妥協するかが作家の力量なのかな、と。それを作り続けて楽しませていた作家の方々には敬意しかない。そんなところに富野さんは挑んでたのか。
なんかいろんな意味で、さす富野と思ってしまった、 twitter.com/takachihoharuk…

 河森くんも、CJの映画で安彦さんのコンテに「もっとすごい絵にできる」と言ってきたんですよね。それで「どういう絵だ?」と訊いたら、「言葉にはできません。絵なら描けるし、コンテにもできますが」と言うので、「じゃあ、コンテにして持ってきて。よかったら、安彦さんに渡すから」となったの。


 河森くんのコンテが届いたら、ほんとすごいのね。びっくりした。それで安彦さんに渡したんですが、「おもしろいけど、ここだけ他と演出が違いすぎて浮いてしまうから」と言われて没になった。ま、作品をトータルで統括する監督としては当然の判断ですね。


 ちょっと話がそれましたが、すばらしい絵とは、そういうことです。この最初に思いついたすばらしい絵を優先するか、考証で整合性をととのえた構成を優先するか、映像作家の永遠の課題です。キューブリックがすごいのは、それを同時にやりきってしまったこと。2001年のすごさはそこにあります。たぶん世界に1本だけでしょう。


 さらに話はそれますが、小説家は、世界のすべてを言葉で表現します。言葉だけで世界を構築するのが、小説家の仕事です。映像作家の正反対。小説家が映画の監督をやると、みな失敗します。言葉を入れすぎて、すばらしい絵が存在しません。考証は完璧にできるかもですが、映像作品としては失格ですね。


追記。
 わたしは思いつくすべてのシーンが必ず絵で浮かぶという人は、映像作家を目指してください。
 すべてが文字で浮かび表現できるという人は小説家を目指してください。逆を選ぶと、しんどいことになりますよ。たぶん。