ある歴史のテレビ番組の企画書みて感じたけど、「歴史の真実!」みたいな流れで出て来る、一般側の前提的な「歴史」っていうのがほとんど「考証つきドラマ」か「教科書」だけで、芝居や軍談や髷ものでは無いんですよね。でも題材は「歴史」ではなくてドラマなので基本は「物語」なのがわりと問題で。
— 氷厘亭氷泉 (@hyousen) 2021年6月14日
とりあげる「歴史」が実際は小説やドラマであつかわれた人物や事件単位(「物語」)でしか無いというのは、けっこう歪みの原因になってる部分が大きい。
現代の物語(最新近年)ではこう描かれてますが歴史の真実だと……! という1個の解答だけに真実を求める流れが軸足になりすぎてて、営々と存在する途中の物語としての享受の流れを豊富に分析するタイプが少ないわけネ。
小説やドラマであつかわれる前の段階・あるいは採り上げる作品以前の物語化(軍談なり芝居なり浄瑠璃なり髷ものなり)を、「物語」とも「歴史」とも大して見てない部分がすごくあるんですよね。
物語を物語っていえばいいのに歴史とか真実とかつけてしまうから結局は「考証が正しくないと作品として無価値」みたいな評価軸や重箱が「歴史」側じゃなくて「物語」側にダケ生じてしまうんだよナ。
「物語」(出来上がった作品)側ではなく、そのベースとなる「歴史」(作品に用いられるような世間の研究考証の一般書や情報空間)側にキチンと評価を出すことが出来ないのは、チコちゃんとかの食べ物歴史ものの内容面のズタボロさでありありとわかるでしょ。