沖縄方言の日常からの消滅にテレビやラジオの同時放送が影響しているのは間違いないけれど、今ある「沖縄訛り」を「方言だ」と言い始めたのははっきりしてて、1982年の深夜ラジオ「ぶっちぎりトゥナイト」で「ナイチャー撲滅運動」というコーナーで開き直ると同時に訛りを「方言」と混同したのが始め
— 神野オキナ (@OKina001) 2020年2月7日
沖縄方言の日常からの消滅にテレビやラジオの同時放送が影響しているのは間違いないけれど、今ある「沖縄訛り」を「方言だ」と言い始めたのははっきりしてて、1982年の深夜ラジオ「ぶっちぎりトゥナイト」で「ナイチャー撲滅運動」というコーナーで開き直ると同時に訛りを「方言」と混同したのが始め
実はその前、太平洋戦争終結と同時に引き揚げ者や米軍の土地接収で地域に固定していた人たちが無理矢理シャッフルされた社会情勢があって、地域ごとにはっきり分かれていた沖縄方言が、互いに通じるように標準語を交ぜることで共通言語として変化し始めていたのは間違いないと思う。
そこへ「ぶっちぎりトゥナイト」がその辺の認識もなく軽チャーの流れで「沖縄訛り」を「ウチナーグチ」と混同(恐らく恣意的。当時の20代から純粋な沖縄方言を喋れる人間は急激に減っていたので、彼等=リスナーを肯定するのが主流の深夜ラジオは「それは方言ではない」とは言えなかったと推測される)
まだ本土への出稼ぎや移住者が現地で白い目で見られ、独自の言語と引っ込み思案な県民性(今のオープンで明るくて騒々しい沖縄県民像は近年に作られたモノ)で、閉鎖的だとされて色々「苦労した」記憶が親の世代(現在の70代以上)には色濃い=子供たちもそういう負い目を持っていた時代。
そこへ80年代、タモリやビックリハウス発祥の千葉埼玉差別ギャグ、というものがあって「地方と中央」の対立がギャグとして軽く世間にあった。これに親の世代の「苦労した」記憶が加わり、さらに本土復帰後、人物往来がさかんになったことで文化交流の初期に産まれがちな感情の摩擦が加わる。
「綺麗な標準語のイントネーション」を喋れないことへのコンプレックスがあり、文化そのものは本土への憧れが強く、そのパラドクスの中、「ぶっちぎりトゥナイト」は開き直って「それで何が悪い」とコーナーを作ってヒット、ここから無邪気な肯定と標準語を話さなくてもよい、という流れが始まる。
地元芝居の喜劇の女王と呼ばれた仲田幸子の流れを汲む「笑築過激団」が泥臭い笑いとこの「沖縄訛り」のイントネーションの面白さだけで人が笑うことを発見、これを県内から県外に拡大し「本土からのお墨付き」に変えたのは「ちゅらさん」。
NHKの朝ドラ初の沖縄もの、という影響力絶大な作品で方言指導をした藤木勇人氏がさらに改変して「本土の言語もまぜこぜにしてイントネーションだけでヘンテコで面白い言語」ドラマ用に再構築したこの沖縄訛りに「ウチナーヤマトグチ」という「訛りではなく新しい方言」というイメージのラベルを貼った
彼等は一時テレビで定番番組を持つほどの勢力であった沖縄芝居の流れを汲む人だけあって、メディアの力を理解していたのは間違いない。しかも全国区から逆輸入されることで「あれがウチナーグチ」という錯覚を県民全体に作る事に成功し今にいたる…というのが個人的史観。
私は、個人的には今ある沖縄訛りは好きではない。あれは県内のお笑い芸人が楽をするために作り上げた「おかしなイントネーションの過激な言葉」だから。あれを使うと、そのイントネーションにばかり注目されて、語る内容には注目されない。だから「あそびにいくヨ!」などでは使っていない。
そして先に述べた「明るくて人なつっこくって、時には騒々しい沖縄県民」はその前のドラマによくあった「大戦の悲劇を未だに引きずらざるをえない悲劇の人々」と同じく誇張し、作られたものである。昭和の末期、沖縄はインタビュアー泣かせと言われるほど、カメラから逃げ回る個人が多かった。
なお「本物に近い沖縄方言」というのはこういう感じのモノ(方言にない単語は標準語のママ)。
私も言ってることの6割はイメージで補うしかない。
なお「本物に近い沖縄方言」というのはこういう感じのモノ(方言にない単語は標準語のママ)。
— 神野オキナ (@OKina001) 2020年2月7日
私も言ってることの6割はイメージで補うしかない。https://t.co/k1AoCf9saR