伝統社会とダイヤルキー・メモ

 「恋愛結婚や女性の進学・出世が当たり前でなかった時代は、多くの人々が結婚して子どもをもうけていた」という言説、半分は当たってるにせよ伝統社会ってそんな綺麗なもんでもなかったよな、という実感がある。


 婚期や出産・不動産購入の時期を逃すと途端に人生茨の道になる現代と同じように、伝統社会もまた、家格に合うような相手・婚期・妊娠・家業・跡継ぎといった要素がダイヤルキーのように合わさらないと、途端にイエの存続が難しくなるたいへんな社会だった。養子や婿入りがかつての日本で多く見られたこと、没落した旧家がかくも多かった理由を忘れてはならない。


 明治的な家父長制が美しい理想として説得力を持ったのは(もっというならその理想の頂点に天皇家があったのは)、実際には多くのイエがダイヤルキーを合わせられずに没落したり、没落せずとも日々悩んでいたからである。


 伝統社会の規範があり、かつその規範の理想が現実(多くの人々がイエを持てた)になったのは、たぶん社会経済が急拡大した高度成長期の数十年だけで、その他の時代は結婚や出産や不動産といったダイヤルキーがあわないのが定常状態だったのでは、とすら思う。


 母方の祖母は福岡県の貧しい農家の11人きょうだいに生まれて、戦後の混乱期に祖父と結婚して公団住宅第1号の某団地に入居、そこで産んだ2人姉弟を大学まで行かせているのだが、婚期とか男女観とか、ギョッとするほど保守的な価値観を内面化した人だった。「学生結婚でもいいから早く結婚しろ」みたいな


 でも彼女の生まれた家や村では、わずかな小作地で食いつなぐか、炭鉱に行くか、朝鮮台湾や満洲に渡るか、いずれにしてもまともなイエを持って死後も子孫に先祖として祀られるという理想を叶える術はほとんどなく、もしそれを望むならお国のために死んで靖国に祀られるぐらいしかなかったかもしれない。


 そんな境遇で育った人にとって、近代的な公団団地で2人の子どもを育てあまつさえ大学にまで行かせるというのはたいへんな僥倖だったはずで、子々孫々、その僥倖を続けて欲しかったはずだ。ダイヤルキーを合わせるようやかましく言い続けた祖母の気持ちも、今ならわかる気がする。


 でもそうした理想は、彼女が生きた時代の社会経済に大きく規定されていたものに他ならず(下部構造が上部構造を決定する!)、現代のわれわれは現代なりに、ダイヤルキーが合わないことを定常状態として受け入れて生きていくしかないのだと思う。