
参政党、マジでやべえなと思ったのは、次の選挙はもう参政党に入れちゃおうかな…みたいな気分に知らず知らずのうちになってること。ルックスの良いさや氏のような議員が「足りないのは財源ではなく愛情」とか言うのを見て、理性では失笑するんだけど、本能が受ける印象としては快/不快どちらかという…
— とし山とし夫 (@toshio_t_44) 2025年8月15日
参政党、マジでやべえなと思ったのは、次の選挙はもう参政党に入れちゃおうかな…みたいな気分に知らず知らずのうちになってること。ルックスの良いさや氏のような議員が「足りないのは財源ではなく愛情」とか言うのを見て、理性では失笑するんだけど、本能が受ける印象としては快/不快どちらかというと快寄りなんだよね。選挙は本能をハックする奴が本当に強いわ。
で、こうやって本能をハックされると、理性は参政党に入れる理由を後付けで探し始めるんだよね。わいは加速主義的な思考回路なところがあるので、政府債務問題に関してはもう徹底したインフレ政策をやって、ハイパーインフレで円を紙屑にしてスクラップ&ビルドした方がいいと思ってる面がある。だから、既存の体制をぶっ壊すには、参政党、れいわ、国民民主あたりのポピュリズム政党に票を入れた方がいいな…という思考回路になる。それっぽい理由なんて後付けでいくらでも考えられるからね。
いやほんと真面目な話、今後の選挙の投票先って大局的には2択しかなくて、老人向け体制維持政党(自民、立憲)に入れるか、若者の票を取るポピュリズム政党(参政、国民民主、れいわ)に入れるかの2択しかない。チームみ◯いのような政権を取る可能性のない泡沫政党に入れるのははっきり言って現実逃避だし。
で、わいの場合は老人政党に入れる気は無いので、この時点でポピュリズム政党しか選択肢がなくなる。そして、ポピュリズム政党の中でどの党が速やかに権力を持ち旧体制をぶっ壊すポテンシャルがあるかと考えると、参政党一択になるんよ。いやほんとマジで次の選挙は参政に入れそう。他の選択肢が思いつかねえ……
間接民主制で政党政治をやってる限り、細かな政策にこだわっても意味がなくて、自分の社会的立場や価値観、思想を代弁する、「政権を取れるポテンシャルのある」政党を支持する必要があると思ってる。だから、間接民主制をやるなら二大政党制に近い形がいい。2択以上の細かい判断は無意味だと思う
オールドメディア、と同じような意味で、オールド政党or政治、というのがまるっと全部「キャンセル」されるべきもの、になりつつあるらしい昨今の世情、ないしは「民意」のあらわれかたについて。2025年の参院選というのは、そういう意味で記憶、いや記録されるべき節目になるんだろう、良くも悪くも。
そしてそれは、安倍ちゃんなどがずっと大きく目指していたはずの、そして実際たまに口にもしていたその「戦後スキームorパラダイム」の煮崩れ過程が、冷戦崩壊後30年あまりかかってようやく本邦「政治」の局面において、いささか想定していなかっただろうありようで、しかしそれでもやはり最終的に世間一般その他おおぜい、およそ老若男女を超えた誰もの腑の裡に否応なしに落ちざるを得ないあらわれ方で。
参政党(的なるもの)と、そういういまどき世情、ないしは「民意」のあらわれ方との関係については、そもそもその前提となっている「キャンセル」気分――つまり「戦後スキームorパラダイム」の終焉に直面した「民意」の内実を、その背景や経緯来歴などと共にどれだけ穏当に、つぶさにまず受け止めようとする/できるか、にかかっているのだと思う。

参政党を、ひとまず「あやしい」と感じる――これは、わかる。
だって、ひとまず理屈抜きにして「あやしい」もの。
そもそも言ってることがめちゃくちゃ、あからさまに反ワクチンだったりスピ系だったりするくらいの「陰謀論」風味が香ばしいし、歴史関連でも随所で(゚Д゚)ハァ?……とならざるを得ないようなずさんで穴だらけな事実誤認や認識不足があらわだし、何だろう、少なくとも「政治」に志して人の上に立とうというには基礎的な教養みたいなものにどこか欠けていそうで、政党として何とか格好つけようとするのはわかるにせよ、その際ばらまかれるさまざまな政策的な主張の相互の間の整合性もあまり考えてなさげだし。
そりゃあ、街頭に貼られたポスターや宣材は確かに目を引くもので、そこにうたわれているキャッチコピーや見てくれやデザインなどもいまどきその他のポッと出の政党、政治団体に比べれば、まあ、確かに一見それなりに垢抜けしているように感じるけれども、でも、あの党首のイケイケ不動産屋のやり手営業みたいなたたずまいやもの言い、さらには参院選でにわかに全国的な規模で網をかけて自前の候補を立ててきた、その候補らにも明らかに若い衆世代のあんちゃんねえちゃんらが目に立つけれども、その分またかえって何というか党首と地続き、そこはかとなく胡散臭げな印象だし。


そんなん、他のいまどきの新しい政治勢力、悪目立ちだろうが何だろうが世間の耳目を集めて親玉がはっちゃけまくり、それを足場にメディアの舞台をあっぱれ正面突破、うつろいやすい民意民心の「気分」をとっつかまえれば得手に帆を揚げひとかどの店構えは張れてしまうもの、橋下徹擁して成り上がった維新の会がそうだったし、最近だと先の都知事選の時の石丸新党、あるいはいわ新撰組なんかもそのへん変わらんやんか、うん、そんな感じ、でも、れいわと違って、なんだろ、初手から不気味に「しっかりしている」感がある、資金やケツ持ちがどうなってるのかわからんけれども、少なくともこのところ一気に表に出てきたのを眺めている限り、「政党」「政治団体」としてのガワのとりつくろい具合が、うまく言えないけど何かあやしいんだわ。




……まあ、ざっとこんな印象、漠然とした見方が、素朴な興味関心のベクトルと共に何となく共有されるようになっていたところに、目立てば目立った分、それだけあれこれ取り沙汰されほじくり返されるのがいまどき情報環境の常、同時にささやかれるようになっていたのは、どうも数年前からマルチっぽい動き方をして支持者を集めていたらしいこと、当然カネ集めもそういうからくりをうまく使って、また実際そういう動き方をうまくしてゆくための黒幕というか参謀衆もまわりに取り憑き、それらともすでにすったもんだ、途中で切られたり取っ替えられたりしてきているらしい、といった芳しからぬ風評の類。
それでも、参院選では国民民主党と共に一気に議席増、既存の政党をまとめてオールド政党&政治、要は「これまでの古い政治」と片づけてしまえるくらいの「民意」を集約、特に20代から40代にかけての「若い世代」「現役世代」がその支持層としてはっきり可視化されてしまったことが、これまでの政局沙汰やメディア主導の「改革」ブームとはいささか様子が違っている。
それが証拠にほれ、参院選のあとからそれら「これまでの古い政治」の側にくくられてしまった自公政権はもとより、その棚落ちのタナボタで議席増できたはずの「万年野党第一党」の立憲民主党から、とうに色モノ的なノイジーマイノリティの元締めに堕してしまった共産党あたりまで横並びひっくるめて、「参政党(的なるもの)に騙されるな」的なキャンペーンを大々的に、例によってのメディアその他と共同戦線で展開し始めたことなどは、これまで見られなかったような浮き足立ち具合なわけで、結局それは、どう見ても無理筋無茶振りありありな直近の「石破やめないで」のうつろな大合唱にまでつながってしまったらしいから、なるほど確かにこれは、これまでとは違ったありようで「戦後スキームorパラダイム」の終焉、が現前化しているのだなぁ、と。




その「石破やめないで」にまでうっかり化けてしまったそれら「これまでの古い政治」と、そもそもどうしてそれが「古い」になってしまったのか、そのことからして全く気づくことのできなくなっているらしい界隈に言わせると、この「参政党的なるもの」に一票を投じたいまどきの「民意」というのは間違っていて、それは「ポピュリズム」なのだそうだ。
ふむ、その「ポピュリズム」というもの言いも、もうそもそもの意味あいからかけ離れたところで都合のいいように好き放題使い回されているからそれ自体どうでもいいようなものだが、敢えてからんでおくなら、かつてなら「衆愚」と評されていたような、あるいは「無党派層」とか「砂のような大衆」とか、果ては時に「ネトウヨ」などとも呼ばれてきた、いずれ世間一般その他おおぜいの何らかの意志や気分のあらわれ、それこそ「流行」などもひっくるめた世相風俗的な水準も時に織り込んだ「世の中の空気」といったものに対する違和感や不信感を抱いてしまった側、そんな立場にある者たちが何とか言葉にしようとする際に選ばれるもの言い、なのだろう。
だから、昨今これを口にし、文字にして使う側は、概ねそのような眼前の世相、「民意」のあらわれ的なものに対する「気に入らない」「あってはならない」、だから「間違っている」という立ち位置を前提にしている。それこそ石破や森山までもがその「ポピュリズム」を仮想敵のように使いながら、そこを足場に自分たちの正当性を主張しようとしていることなどは、そのわかりやすい眼前の実例だろう。つまり、世間一般その他おおぜいは愚かで考えなしで間違っている、数の多さや声の大きさなどにまかせてあたかもそれが正しいかのように思われているけれども、でも本当に賢く考え深い者はそのようなその他おおぜいに付和雷同したりしないのだ………あれ? これってものすごくよくあるひとりよがりの独善の、自省もしない/できないまま考えなしに繰り出してくる正当化の手口だったりもしないのかな、と。
参政党が実際、どれくらい政党としてこの示された「民意」に応えられるのか、それは現状わからないし、「民意」にとっても当面どうでもいいことだろう。その意味では今回参政党同様「これまでの古い政治」ではない、と見做されて期待されている国民民主党だとて同じこと。ただ、若干留保しておくなら、参政党に比べて国民民主党の方が「これまでの古い政治」のシッポをかなり引きずっているし、それは単にプロモーションの仕方とそれに応じているいまどきのその「民意」の側の通り一遍、メディアの上澄みでの理解の水準以上に、現状「古い政治」由来の人脈から背景その他、抜き難くからんでいるように思うのだが、それはひとまず措いておく。いま現前している「参政党的なるもの」に絞って合焦してみる限り、その背後に横たわっているらしい「これまでの古い政治」に対する「キャンセル」気分を考えようとする場合、国民民主党も同じく「あたらしい政治」の側にあることは、参院選で示された「民意」に即して理解しようとする限り、とりあえず間違いはないだろう。



何よりヤバいな、と本当に思い知らされているのは、それら「これまでの古い政治」の側にある人がたや組織、集団その他が、どういうたてつけになってそうなるのか正直まったく謎なのだが、なぜいまそのように自分たちの立ち位置が自分たちの思うように想定の範囲内で理解されなくなっているのか、そのことについてきれいさっぱり認識できなくなっているらしいことだ。そしてそれは、大風呂敷広げるなら「戦後」このかた80年の間、紆余曲折七転八倒はしながらもそれなりに連続してきた「そういうもの」としての本邦「政治」とそれを支えてきた情報環境およびそれに依拠した言語空間のまとまり具合が、このようにうっかり綻びを露呈させてしまっている、というその意味でも未曾有の事態であるらしい。
そのような事態を舞台の書き割りとして、いまのこの「参政党的なるもの」は現前化し、とりあえずはいきいきとした何ほどかの〈リアル〉をすらこの舞台の上に宿らせている。それがいかに陳腐でチンケでスカスカでワヤで、これまでの「そういうもの」になっていたような「政治」のものさしを当ててみれば「話にならない」代物に見えるものであったとしても、しかし少なくともその「話にならない」〈リアル〉についてだけは、それを〈リアル〉と見る「民意」の現在にとっては許容され、ある程度までにせよ支持も表明されるものになっている。選挙という仕組みを介してしか「政治」の位相に対して表明する手立てを持っていない世間一般その他おおぜいの立場からすれば、そちらの〈リアル〉に投企することはひとまず「正しい」としか言いようがないだろうし、まただからこその参院選のあの結果だったはずではなかったのか。
そもそも、あの党首にしても、もとをただせば起業家精神旺盛な若い衆世代の市議会議員。自民党に推されて府議会議員選に出馬して落選したりもしていたものの、本来棲息していた生態系も良くも悪くもおよそ市議会間尺のもの。それが世代ゆえの野放図さかマルチまがいの手口で支持者≒「信者」を集め、その場その場の風向き次第で目を引きそうな能書きをキャッチコピー的につまみ喰いしながらなりふり構わずのしあがってゆく。しかし、そこはお里がお里ということか、そんな空中戦だけでなく、同時に全国の市町村レベル、それこそ地方の草の根からの浸透も着実に図ってゆき、「組織」としての骨組みは定石通りにこさえてきていたという、結果オーライのこの併せ技。
この経歴、今様下剋上譚にもなりそうな「おはなし」そのものの信頼できなさ、そこに散りばめられ埋め込まれている挿話や断片などからして、そもそも「これまでの古い政治」文脈の「おはなし」とどうしても二重写しに見えてくるところがあるのは、何も「参政党的なるもの」への違和感や不信感を抱いて忌避してしまう「情弱」老害化石脳に操られがちな層だけでもないらしい。その程度に、本邦「戦後」80年の経緯来歴の裡に、われら世間一般その他おおぜいの意識や感覚として刷り込まれている「おはなし」としての政治の拘束力というのは、水面上の「古い/あたらしい」という潮目とはまた別の、ひとつ潜った水面下にどうやら未だしぶとく変わらず、たゆたっているものでもあるようだ。
こういうまごうかたない現在としての「参政党的なるもの」のこれから先、を見透かしてゆこうとするなら、この現前ナマものの「民意」のありよう、そこにはらまれている内実をこそ、全力全開で察知し、至らぬまでもひとまず必死に、誠実に言語化してゆこうとすることから始めなければならないはず、なのだが………
それにしても、なのだ。
その「参政党的なるもの」をガンギマリ目の仇にして「ポピュリズム」一択、愚かで雑で判断力のない下々の奴らは困ったものだ、とばかりに、おのが目の前に忽然と姿をあらわしたこの間の「民意」に対して立ち向かおうとする、いまのこの石破政権およびその周囲の与野党不問なオールド政党&政治界隈から既存のメディアや知識人文化人言論人などに至るまで、いずれわらわらと相寄り同じ能書きをコピペどころかAIかましたbotのごとく斉唱するばかりという、われら世間一般その他おおぜい凡俗凡庸ボンクラ連の平均的な想像力のはるか斜め上無限大なおよそ信じられぬこの醜態というのは、そのまんま本邦「戦後スキームorパラダイム」がいま、まさにこのように完全に煮崩れ切ったありさまをわかりやすく体現してくれているんだろうな、と。*1



