
「人材」というもの言い、いつ頃から普通に使い回される語彙になってきたのかよくわからないけれども、人や才能に対して「育てる」「養成する」といった過程の認識がどんどん剥離していって、ただ出来合いの、いつでもそこにある便利な完成品としてだけとらえるようになっていった過程と、どこかで関わっているようには思う。
そしてここでもまた、あの「消費者の横暴」で、それら「人材」を横並びにただ「選ぶ」だけ、便利に「使う」だけで、使ってるうちにガタがきたり壊れたりしたら「取り替える」だけ、という一連の接し方こそ大正義、最も「効率的」で「合理的」で「賢い」考え方なのだ、的な了見がごくあたりまえの感覚として、同時代的気分の「そういうもの」のうしろに鈍く横たわっている。最も貧しい痩せた意味での、そしてだから「効率的」で「合理的」な意味あいとしての「市場」的現実に対する解釈と運用の系。
「もの」とのつきあい方、接し方の、敢えての大風呂敷で言えばそれこそ文明史的な脈絡での変遷、という問いにつながってゆくはずのお題でもあるのだろう。人が手を使えるようになり、何らか道具的な意味あいを付与したものを使って周囲と関わるようになってゆくことで、その道具が手の延長、生身の身体感覚の全体性の端末として働くようになり、人にとっての現実が拡張されてゆく――かつて大学の一般教養の講義のひとコマで、あるいは未だ「教養」に値する一般書の市場が健康に稼動していた頃の書店の新書や文庫本の書棚を介して、いつどこで誰にというわけでもなく、いつしかそれなりに教えられてきたような「人間」についての基本的な文明史の一端。
ことは何も「もの」だけではない。てか、「もの」と同じように人も「関わる」対象、生身の身体感覚を土台にしながら相互的に照らし合いながら共に〈いま・ここ〉にあるのだから、現在の眼前の問いの立て方としては、
「育てる」「制御する」「維持する」≒「面倒をみる」
という一連の「関わる」過程が剥離していった経緯来歴について、になってくる。
昨今ではこの人材の「材」が「財」に横転していってもいるらしい。なんぼか値打ちがついたような印象になる分、まだ大事にしている気分にでもなるのか知れないが、どっちにせよ一方的に操作し、扱い、使い回す対象としか見ていないのは同じこと。そりゃ、いったん就職したら定年までよっぽどのことがない限りクビになることはない、という、戦前ならお役人由来の安定雇用がそれなりの民間企業にまで援用されて、戦後は一気にそれが「会社勤め」のあたりまえであるかのように思い込めるようになった「終身雇用」のたてつけなどすでに実質崩壊している現状で、「ニンゲンらしい働き方」だの「やりがいのある労働環境」だのあれこれお花畑なきれいごとばかり聞かされたところでそんなもの、人「材」でも人「財」でもそう言ってくれた方がいっそわかりやすく諦めもつくってもの。帳簿上に数字として記載される水準での〈リアル〉をそのまま生身の現実に投影して、事実そのような手ざわりでしか職場の関係を構築できなくなっているのだとしたら、ある意味こういう語彙も、本邦の仕事の現場における日々の実感に見合って浮かび上がってきたものかもしれず。
バイトと正社員の間も実質「働く」ことについては変わらなくなった、ということも言われて久しい。
まあ、これは本邦同胞日本人の均質性というか、労働力のみならず個人の能力がかなり均されて平準化していることが、この場合悪さしているところがあるのかもしれない。たとえば、いわゆる「おばさん」労働力については、パート労働力としての優秀さは以前から指摘されてきているし、若い衆にしたところで概ねそのように認識されてきてはいた。だから、「人材」というのも、必ずしも悪い意味だけでなく、有能で平均的に能力があるからこそ、「材」という平準的なニュアンスで表現できるという前向きな側面もまた、あったのだろうとは思う。
にしても、ではある。
少子高齢化に伴う労働力不足(と言われている)の状況で、なりふり構わず考えなしに「外国人」を導入する目先の弥縫策(だろう、どう考えても)を、国策として推進するようになってしまっている近年の状況で、これまでのような「人材」感覚、良くも悪くもフラットで平準的に「それなりの能力」を持った労働力があまり考えなくてもそこらから採用できるという本邦特有の労働市場のこれまでのありようを自明に前提にしたまま、同じように「外国人」を労働力として導き入れてしまうことのワヤは、すでに眼前の大問題としてさまざまに可視化されている。
労働力は「人材」ではない。少なくとも、これまでわれわれがあたりまえにそう考えていたような、フラットにそれなりに能力があり、日本語の読み書きもそこそこできて、もちろん日本人間尺での気配りや思いやりなども、まあ、許容できる程度には身につけていて、といった「普通の人≒日本人同胞」という認識をそのままうっかり適用して成り立ってきたような「材」ではあり得ない。
これもまた、これまでの「そういうもの」として空気のようにあたりまえだと思ってきたわれわれの意識や感覚を、眼前の現実とそこに宿る〈リアル〉にあわせて意識的に変えてゆかねばならないという、いまどき本邦世間一般に問われている課題の一環ではあるらしい。