多様な人生行路・雑感

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 本邦の4年制大学が少し前、ある時期までうっかり担保していたような「自由」という名の「ムダ」の意義について、われわれはもうちょっと本気出してことばにしておかねばならないのだろう、と本気で思っている。

 さよう、それは確かに「ムダ」であった。何かひとつの確実なゴールに向って一意専心、まっしぐらに積み重ね、進んでゆくようなものでは、まずなかった。効率的でも合理的でもなければ、日々是精進の脇目も振らぬぶれなさでもなかった。とりあえずやらねばならないこと、というのはあったし、それはそれで「こなして」ゆくくらいならそう大した苦労もなかった分、その残った部分、余ったリソースを好き勝手に〈それ以外〉に配分してゆくことができたし、またそういう「ムダ」こそがそれまでの「学校」と違う、「大学」ならではの「自由」という風に感じられていた。

 とは言え、昨今の若い衆世代にとってそれは敢えて尊重すべきものとも思えなくなっているフシがあり、それはこちらが想像するよりも強く、言わずもがなの前提になっているように見える。そんな期間限定の「自由」などよりも、先行きの保証を。確実に食ってゆけて生き延びられるための何らかの後ろ楯をよこせ、という無言の同時代気分。それがどんなに根拠のない「資格」や「免許」であっても、あるいはその場しのぎの美辞麗句で煽られるだけのコンサル系話法の釣りであつても、すでに日常からある程度あたりまえと感じられるくらいに享受してきている「自由」のことさらの称揚などより、自分がこの先生きてゆく上で確かなもの、と思えるのは致し方ないところがある。

 大学のそのような「自由」が、その後の人生でもかけがえのない原点として、あるいは準拠枠として保持してゆけたのは、ならばいつ頃までだったろうか。あるいは、どのような人生行路であれば、それが幸せにも信心抱けたままで実際に生きてゆけ得たものなのだろうか。

 「教養」と言おうが何しようが、それはすでに具体的な実利、確かに「役に立った」と自らしみじみと身にしみることのできるようなものとして、〈いま・ここ〉の若い衆世代に説得し、実感してもらえるような言葉やもの言いを獲得できないままでは、それらはこれまで以上に空虚な、年寄り世代のお題目としか世の中に響いてゆけなくなってゆくことは確実だろう。

 まず何よりも、「転職」がすでにあたりまえな人生体験、ほとんど誰もがくぐるイベントになってしまっていること。それも30代にさしかかる前に概ねそうなっているということ。このあたりの現実を穏当に織り込めないことには、「キャリア形成」だの「人生設計」だののもの言いは身につかないコピーの水準のままでしかない。それは違い言い方をすれば、「学校」を「学歴」の積み上げの段階から抜け出してなお、労働力としての「市場」的な世界に放り込まれ続けることに他ならない。常にそのようなものさしで比べられ、「評価」され、それによって他でもない自分の暮らしもまた振り回され続ける、そういう種類の「永遠に続くかのように思える安心立命のなさ」が、いまどき30代以下の若い衆世代には鈍く共有されているらしい。巷間言われる「氷河期ロスジェネ」世代の困窮などは、そのような「安心立命レス」の生活感覚が世代横並びにいきなり来襲した最初の衝撃に端を発したもので、そのファースト・インパクトがその後の世代にまでずっと波及、浸透している。そのような意味での「世代」差、「格差」の存在は、ずっと言い続けている「公」「公共」の後退などにも当然、連なっている眼前の事象ではあるはずだ。

 

*1:大学の意味が本当にかつてと様変わりしてしまっていることを、世間一般その他おおぜいの側がアップデートして・できていない問題、ここでも。