文脈の収奪・メモ

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 元々、「言葉」は内的な世界そのものであるし、でも同時に、それが示す「そのもの」とは解離してるものな訳で、それが人間の社会を発達させ精神を自由にさせてきたと思う。でも無闇に、時に狭義でも広義でも政治的に、言葉を実物から解離させ便利に利用しちゃうと、その隙間に魔が入ってくるだろう。「言葉」と「それそのもの」の間に何が入ってくるのか、何を入れられるのか、どんな風に捻れて繋がるのか等、分からないしコントロールもできない。そうなったソレが他の言葉や外的・内的世界にどういう影響を及ぼすのか分からない。そして我々はその内にいるからほとんど無力なのかもしれないし。


 まあ、無力でも人間が言葉を使ってる以上は皆自分自身の事だから、気付いたり気になったところで戦うんだと思う。なんかほら…ツイッターで自分には解らぬ何かが引っ掛かって戦ってるよその誰かもそういう意味では同志なんだと考えられるな……


 そして川のように、ニューロンの繋がりが強まるように、一旦文脈が出来るとそれに従って流れるようになる。だから権力者は必死で物事の多彩な文脈を奪おうとする訳だな…そして一旦そうなったら逆行し他の川を作るのは容易じゃない。


 だから文脈は奪われないようにしたいよね。川を奪われるのは水を奪われるのと同じなんだから。

 文脈を読まない、読めない現象がさまざまに指摘されるようにはなってきている。若い衆世代に顕著という導入での世相風俗的な拾い上げ、といった形での感慨的なものが多いようだけれども、もう一歩踏み込んで考えようとすれば、それは何も若い衆世代に限ったことでもない、われわれが生きる現在、〈いま・ここ〉全般に関わる問いになってくるらしいこともまた、気づき始める向きも。

 ヘイトスピーチというレッテル貼りから発動される「言葉狩り」(このもの言いも考えたらいつ頃から広まったものだろうか) にしても、背景や文脈、そのような言葉が使われる事情などについては一切留保も考慮もなく、ただそういう言葉がそこに存在した、ということだけを論って半ば自動的に無意識裡に非難が始まり、歯止めがかからなくなるというのがお約束の流れになっている。

 こういう現象、いわゆるフェミニズム界隈の「不愉快な表現」狩りなどとも見事なまでに同じあらわれ方をしていて、それらはまた言葉だけでなく「表現」一般、しかも昨今のことゆえビジュアル系の表現にまで網を広げてきているから、さすがに最近ではあれこれ世間から反撃されるようにもなっているようだが、だがこれらの現象、「文脈を考慮しない・できない」ことを足場に逆に考えてみれば、言葉であれビジュアル表現であれ何であれ、とにかく何かの基準でターゲットになり得ると彼ら彼女らが判断した表現・表象がそこにあると認識してしまえば一気にそれだけで定型の袋叩きが発動されてゆくという意味では、生身であってもまるでbotのように、ある種AI的な合理性で裁断してゆくような主体が普通にそこらを歩くようになっているということかも知れず、そのような主体が標準設定になった場合の「社会」や「民主主義」はさて、どういうものになってゆくのか、などあれこれ割とシャレにならないお題にもなってくる。で、そういうターゲットはもちろん可変だから、それが「団塊」だの「高齢者」だの「無駄メシ喰い」だの「無職」だの「童貞」だの(以下随意)に置換されることもまた、容易にできるだろうし。*2

*1:文脈が収奪されているような感覚についてのメモ。TLにもこういう述懐の類は割と流れてくるようになった。

*2:例の「KKO」問題などもこういう方向から考えてみる必要はあるのだろう、と。そのようなターゲット化されてゆくメカニズムなども含めて。