「読む」ことの現在

 電子出版業界では、だから(売るためには)コンテンツのマイクロ化だ、とかなる訳だけど、そんなこと言ってる場合なのかな?いや、別に一冊の本読み通せなくてもそれなりの知識が得られてそれなりの教養が構築されるのかな?

 文字や活字を「読む」ということが、一定の集中と意識の意図的な制約によって、文脈や脈絡といったある種直線的な流れを仮構的に作り出してゆくことだった時代が、もしかしたらもう少しずつ別のものに移り変わりつつあるのかも知れない。これはいまどき若い衆世代にとっての「読む」が、どうやら自分たちがあたりまえにそのようなものだと思っていたような、直線的な文脈を自明の前提としたものではなくなってきていて、彼ら彼女らは一定の分量の文章をその文脈に沿って「読む」ことができなくなっている、といった現象としてそれなりにさまざまに指摘されてきていることでもあるけれども、ただしそれは表層的なとらえ方に過ぎないかも知れないのであって、その向こう側に彼ら若い衆世代らの感覚に沿った新たな「読む」が発動されているのではないか、という留保は個人的にもずっとある。

 vivacious という見慣れない英単語を、未だに思い返してみることがあるのは、このような「読む」を改めて立ち止まって考えようとする時の癖みたいになっている。辞書的には「陽気な」「快活な」といった意味が第一義に書かれている単語だが、こちらが迂闊だったのか、かつてのいわゆる受験英語でも見かけなかったし、その後もそうそう出喰わすことのなかった自分としては珍しい言葉ではあった。それをどうしてそんなに思い返すのかというと、例によっての柳田國男になる。彼が、どこかで読書について、つまりここで言っているような「読む」ことについて言及していたものに、自分たちのような近代の情報環境で社会化してきた新しい世代は、それ以前の近世的な環境で「読む」を自分のものにしてきた年上の世代の文字の読み方と明らかに何か違う読み方をするようになっている、その自分たちの「読む」を規定している性格をあらわすのにこのvivaciousという英語をわざわざ引用しながら説明していた、その一節を鮮明に覚えているかららしいのだ。

 自分たちのような新しい世代の「読む」は vivacious なものになってしまっている――元の文章にあたることをしないで記憶の中での印象で語ると、概略そのような意味のことを彼は言っていたはずだった。それが辞書的な意味の「陽気な」「快活な」といった単純に前向きな意味でないことは、その文脈でわかった。それは集中と持続によって文章のその文脈に異様なまでに意識を集約・凝集してゆくような、彼よりも当時年上の、明治以前の近世的情報環境での「読む」を身につけていた人たちの読書習慣との距離感と、そのような距離を感じてしまう明治生まれの自分たちの世代性を「そういうもの」として肯定しながら、しかし同時に、すでに決定的に失われてしまっているらしい「読む」資質についても語ろうとしたものだった。

 「陽気」で「快活」とは、柳田の所論で言えば近代的な、都市的な人間の属性である。ただそれは同時に、あれこれと興味関心が移り変わり、一点に集中して持続させることの苦手な、軽佻浮薄な性格ということでもある。その双方を含めて、複雑な意味あいを込めて彼はそこでその vivacious という英語を使っていた。

 全体に気が軽く考が浅くて笑を好み、屢々様式の面白さに絆されて、問題の本質を疎略に取扱ふこと是が一つ、群と新しいものの刺戟に遭ふとよく昂奮し、しかも其機会は多く、且つ之を好んで追随せんとしたが故に、往々異常心理を以て特殊の観察法を指唆せられたこと、是がその二つである。次には何に使ってよいか、定まらぬ時間の多いこと、さうして何か動かずには居られぬやうな敏活さ、是が亦容易に他人の問題に心を取られ、人の考へ方を自分のものとする傾向を生ずる。

 若い衆世代だけのことではない。文脈を集中して、持続して追うことが自分たちもできなくなり始めている。そういう自覚は否応なくある。Twitter との接触時間が長くなるにつれて、いやそれだけでもなく、ノートパソコンを開いた環境で初めて本や資料を「読む」ことができるような感覚すら、立ち止まってみればすでにかなりあたりまえのものになっているらしい。それは、「読む」ことが単にこの自分の意識の、生身のひとつの身体の裡においてだけ完結するものでもなく、同時に複数の「読む」を断片的に、その場その場の必要に応じて断続的に駆使してゆく、だから作業しているのは間違いなく自分であっても「読む」の主体は自分にだけ成り立っているわけでもない――ああ、例によってこれもまた未だにうまく言えないのだが、何かそんなものになりつつあるような気もしている。

 だって昔なら、夜中にふと「〇〇って映画の監督誰だっけ」って思うても調べ様がなく、わからぬ事として心の中にわだかまるだけだったんですよ。今なら何でも検索したら出て来る。つまり脳の容量の外部化というか知識を溜め込むことの重要度がかなり下がった。*1

*2

*1:凍結されたアカウントのtweetより。大事な断片として手もとに記録、保存してゆくことを日々やるようにしてきていて、それらを足場にして何か考えなり何なりがまとまりそうになると作業をして、ここにアップするということを繰返しているから、記録、保存した時点での日時とアップの日時がずれるのが通例になっているのだけれども、これもそういう意味で半年以上前の記録、保存のおかげ。ただ、凍結されてしまったので痕跡だけがたまたま手もとに残っていたのでここで使わせてもらった。https://t.co/e9XHiBIVhw— dada (@yuuraku) April 3, 2019

*2:そういう意味でこのNOTES、アップした日付が前後するのが通例なので、古い日付(と言ってもせいぜい半年から数ヶ月内外のはずだが)で新たなエントリーが追加されていることが普通にあるのでそのへんは平にご容赦。だから、たまにさかのぼって「発見」していただくような事態になるのならありがたし。