フェミニズムは女性を生きやすくするはずだった
— 千野 帽子「東京五輪×日本文学」『物語は人生を救うのか』 (@chinoboshka) 2019年10月16日
→のに日本では男を攻撃する思想のようになってしまった
→と思ってたらさらにそうでもなくて、自分と相容れない女性を格下げしたい(無自覚な被害者あつかいして同情するふりをして)という衝動がその原動力だったのではないかとバレつつあるのでは。
Twitter上のフェミニズムのうちミサンドリーが核になってるケースはわかりやすかったんだけど、どうもそうじゃないケースもあるよな…と考えて思い当たったのが学級会カルチャーというか「クラスのグループ」文化みたいなやつ。これはカーストともちょっと違う。
以前女の人が「男の前で態度を変える女」をすごく悪く言っていたので冗談半分に「男だったら『同性の支持を失うリスクを冒しても俺の前で態度変えてくれるなんて!』って嬉しく思うかもね」って答えたらマジで怒られたんだけど、なんかそういう「望ましくない同性」への圧ね。
同性の「望ましくない行動」にたいする嫌悪とか牽制。その背後になにかの「恐れ」がある。でも露骨な牽制ではなく、「彼女たちは男社会に抑圧・洗脳されてそのような賢明でない戦略をとった愚かで可哀想な被害者なので。即刻その行動をやめさせなければ」という形を取る感じ。
あとそのとき新鮮だったのは、「その手の女は男の前で取り繕っているので男は騙されている」みたいなことをけっこう本気でその女の人が信じていたらしいこと。男が「彼女が自分のために取り繕ってくれていること」自体を嬉しく思うという視点がないようだった。
「日本女子のグルーミング的で薄い言葉のやり取り」がサウスパークでネタにされたら「日本の男は児童のような女を好む」「日本の女は男が好む姿になりがち」と憤ってみせる女性がいた。でも日本の女を馬鹿にしてるのはまずサウスパーク作ったやつ、つぎに「女は男が好む姿になりがち」と言ったあんただ
外国人とりわけ白人に「日本の女ってこうだよね」とネタにされ、消費=差別されたときに、フェミニズムの怒りの矛先が目の前の外国人ではなくなぜか「日本の男」に向くというのは、半年前のドイツのホームセンターCMのときもそうでした。ミサンドリーとは違うなにかがある。
「自分と行動規範が違う同性への劣位なレッテル貼り」「その同性の主体性を認めずに洗脳の結果だとする決めつけ」、これってけっこうパターナリズムなんじゃないんですかね。むかしの嫁姑ドラマのお姑さんみたいな社会的圧力だと思いますけどね僕は。