ことばに合焦してしまう意識の習い性・メモ

 クラシックやジャズが「高級」で「知的」な音楽で、かつての「教養」の一角すら形成していた理由について。あれ、要は「歌詞」がなかったから、という事情もあったと思っている。

 ことばと意味とにまつわらされているある種のめんどくささみたいなものは、同時に通俗への入口にもなっていた。特に、耳から入る音としての音楽にそれらことばが介在していると同じ音でもまずそこに耳が合焦してしまう性癖が、文字/活字を「読む」ことで自意識形成してきたような人がたにとっては拭い難くあるものらしく、文字を「読む」ようにことばにも直線的に否応なく意識の焦点を合わせてしまう。歌詞のない音楽はそのような意識の合焦の習い性をスキップしてくれるし、その分またことば以外の音楽の成分を音として、フラットに平等に「聴く」ことを可能にしてくれる。ことばと意味の呪縛に自ら身を投じたことでそのような「自分」になっていったことをもう一度、自ら否定してゆくことで感じられた解放感のようなものが、クラシックやジャズといった音楽に彼らことばと意味に呪縛された「自分」という意識たち――つまりインテリ、知識人の類にとっては新鮮で、何か興奮を喚起しやすかったのだろう。*1

 おそらくこれは音に対する耳と聴覚についてだけでなく、眼と視覚を介した視線でもそういうところがありそうなのは経験的にもある程度わかるところがあって、街なかだとよくわからないけれども、たとえば野外の風景の中に文字で書かれた看板などが出現すればそうと自覚して認識するより先に意識がそちらにパッと合焦してしまうし、外国に行ったりすればさらにはっきりと、まわりの風景の中に埋め込まれ紛れ込んでいた自分の理解できる文字にだけ意識が集中してしまうのがわかる。理屈や理論の類は知らないが、実感的にそういうことばと意味の呪縛というのは思い知らされることが少なくない。そしてこれは、音楽に「歌詞≒日本語」が介在してない分、自由自在にこちらの「想い」(≒思い込みor勘違いor妄想その他)を勝手にぶち込むことができるという、後のおたく(的心性)が森高千里に熱狂しメイドやフィギュア、レイヤーらの「内面など(゚⊿゚)イラネ」な対象に自分のココロのちんちんをうっかり丸出し垂れ流しに、という古くて新しいココロのからくりとも相通じる、何かの闇に収斂してもゆくものだと思う。そういう意味では、かつての丸山真男のクラシック崇拝、なんていうのもあれ、いま読んでみるとご本尊は自分で読み返して死にたくなったりせんかったんかな、と。*2

 いまどき若い衆らがカラオケでアニソンとか歌う時に、おっさんおばはんらが歌謡曲や演歌歌う時みたいに眼を閉じて、自分の内面にだけ対峙してゆくような陶酔の仕方して歌うことって、最近はもうあまり見たことないような気がする。いつもイヤホンを耳に突っ込みっぱだったり、マスクするのが常態化してたり、あるいは前髪その他で顔を隠したがったりパーカー類のフードを好んだり、いずれそういうわかりやすい明示的な「自意識ガード」モードのいまどき若い衆よりも、むしろそうでない若い衆の方がそのような自意識表現のこじれ具合が深刻化しているかも知れない、という印象もある。これはもちろん、戦後で昭和なおっさんおばはんたちはなぜ、カラオケで歌う時に眼をつぶって歌いがちなのか、という懸案の問題とも裏表になって、近代の浪漫主義的自意識とイメージの脳内立ち上がり方の関係、そしてその来歴について、といったお題につながってゆく。あるいはまた、昨今また改めて前景化してきたところもあるいわゆる「ポエム」にうっかり引き寄せられてしまうココロのありよう、などの問題もからんできそうではある。さらに拡げるならば、これも以前から言及している、どうして浪花節は(おそらくある時期以降)眼をつぶって聴くものになっていた(らしい)のか、などもまた。

 このへんはそれこそラノベの読み/読まれ方、の問題とも関わってきそうな話で、そういう映像や場面その他いわゆるイメージ的な喚起力が鋭敏になった分、これまでのような散文的文脈に即した意味の引き出し方をしなく/できなくなっている昨今の「読み」前提の表現がラノベかも、という弊社若い衆仮説とも繋がってくるかも知れない。確か、久美沙織が似たようなことすでに指摘していたようだし、それ以外でも違う形である程度言われてきてはいるんだろうけれれども、*3こういう「読み」のありようが異なってきていることと情報環境との関係は、日本語環境での人文社会系の〈知〉のありようの煮崩れ具合を相手どって考えようとする場合不可欠の視点になってゆかざるを得ないだろう。

 このあたりのお題については、話を聞いてメモをとる、ノートする、といったつながり方についても、こちらが求めているような意味での意識のつながり、身体の感覚の連携などからまずうまく実感体感されていないのかも、とずっと疑いながら試行錯誤しているのだが、いまどきの若い衆などを見ていると、日常的な「おしゃべり」をしなくなっている分、話しことばを「聞く」という経験自体が薄くなっているとしたら、ことばが作り出してゆく意味を、耳を介した音から変換して理解する能力もまたこれまでとは違ってきている可能性はあるわけで、それはたとえば、以前から触れている音楽の聴き方、「歌詞」の意味を聞き取ら/れない、という聴取作法の違いや、普通の人が普通に音楽を聴く場合にすでに歌詞は音楽を形作っている要素として重要ではなくなってきているらしい、という問題にも、また。

 例によって未だうまく説明できないのだが、たとえば「朗読」ということをしなくなった――文字を自分で発声して読んで音に変換して、それを自分の耳で聞いて、という経路でのフィードバックによる「ことば-意味」の自分自身への宿り方の経験が蓄積される機会が少なくなったことと、「言葉」を理解してゆく能力との関係がどうもありそうで仕方ない。もちろん、音楽の歌詞は文章、特に散文のような文脈を求めるものというより、いわゆる「詩≒うた」的言語の類だろうから理解の意味もまた違ってくるところがあるんだろうが、それでも耳から音として入ってくる言葉を自分の裡で意味に変換してわかろうとする経路のありようが変わってきているとしたら、音楽の聴き方も変わってくるんだろう、と。話しことばを耳にして、いわゆる意味と紐付けて理解しようとする経路と同時に、何かイメージとして映像や場面として立ち上がる経路があるとしたら、その後者の経路がどんどん鋭敏になって/させられてゆくような情報環境で育ってきたことによる「わかる」の成り立ちそのものからしてもう、少し前までのあたりまえとは違ってきている可能性があるんだと思う。

*1:もちろんそれが「洋」楽であったことも大切な要素ではあったろう。歌詞のない、ことばが音として介在しない音楽というならばそれまでの邦楽系でもよかったはずだけれども、しかしそれはまた彼らの意識にとっては彼らが聴くべき「音楽」として意味づけられていなかったという事情もありそうではある。「音楽」体験というのはそのように、彼らが生まれ育った情報環境で刷り込まれていたはずの邦楽その他も含めたいわゆる音楽体験とは切り離されたところに、別個に経験されるものだったらしい。

*2:と同時に、そういうインテリ知識人の類の「趣味」の部分までもが「情報」として、読書人層に向けた「商品」の一部分として流通してゆくようになったことも、戦後の高度経済成長期の出版市場の膨張とそれに見合った大衆的読書人層の拡大に附随したそれまでになかった事態のひとつだったのだろう、とも思う。

丸山真男 音楽の対話 (文春新書)

丸山真男 音楽の対話 (文春新書)

*3:ラノベを相手取って四つに組もうとした弊社若い衆とのここ2年の道行きの中で遭遇した、おそらく自分ひとりだったらまず気づかなかった可能性の高いいくつかの資料のひとつとして。

コバルト風雲録

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