親の蔵書や書棚のあるなし、他

 もう40年近く前、還暦直前の年回りで出張帰りの空港で突然死したオヤジは、大学は出ていたけれども絵に描いたような体育会系で、「蔵書」の類はほとんどなかった。

 いまはもう特養暮しになっているおふくろは当時の高等女学校出で、それなりの読書習慣もあったはずで、事実、吉川英治全集や復刻版の日本文学全集、それとなぜか筑摩の現代漫画のシリーズも、おそらく百科事典を揃いで買うような感覚も含めて買ったりしていたし、割と早くにオヤジが亡くなって以降は自分の好きな小説、隆慶一郎や宮城谷昌光京極夏彦などを買ってひとりで読んでいたりはした。

 ボケ始めてからは、同じ文庫本を何冊も、タマネギや牛乳をやたら買い込むのと同じような調子で買ってくるようになって、あれ、こりゃまずいかも、と気づかせてくれるきっかけになったのだが、それでも、自分の小さい頃を思い返しても、家の中に彼女自身の本棚というのは特になく、管轄する本があったとしてもせいぜい編物や料理といった実用書の類か、あとはずっと講読していた暮しの手帖くらい。なので、書棚に並ぶ親の本を好き放題選んで、といった、折り目正しい中流家庭の子弟がたにありがちな幼少時の読書体験は自分にはなかった。

 本を買ってもらうことにそれほどハードルは高くなかった。もっとも、マンガ本は自分のこづかいでしか買えなかったし、戦記ものや戦争関連の本にはかなり難色を示されもしたが、*1そのように買ってもらうなり何なりして、何かの縁で自分のものになった本と「つきあう」ように読む。半径身の回りの手もとに置いておいて、ことあるごとにめくったり持ち歩いたりしながら。そんな接し方を、童話やマンガなども含めての書籍、いわゆる本だけでなく、その後のレコードにも持ち越していった。それは、思えばものごころつくかつかないかの頃、与えられたさまざまなおもちゃとの接し方と地続きだったのかもしれない。

 なんでこんなことを考えているかというと、「集中」する、そして「反復」することを「持続」してしまう、言い換えれば「執着」してしまう性癖の来歴について、あれこれ交錯しながら〈いま・ここ〉の歴史の相のひとつとして考えるようになってきたこととも関わっているらしい。

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*1: たとえば、こんなの。 king-biscuit.hatenablog.com