ガールズバーから考えた・メモ


 一時期、接待兼ねてオタク系のガールズバー行ってた事があったけど客が女の子にドリンク出すの渋るの結構普通の光景な印象だった。昔のメイド喫茶もそうだったけど、オタクは実利が無いとお金出さないし、その辺りが女性からもキモいと思われてる感あった。


 ガールズバーのシステム知ってると1000円のドリンク入れても小学生の小遣い程度しかバックが無いのでそれすら渋る客は嫌だというのは分かる。グラスが空く度にお代わりさせても1時間当たり1万円程度しかかからないので、そういうお金の使い方が嫌な人は店員も客も嫌な思いするよな…。


 以前は自分もキャバクラとか死ぬほど馬鹿にしてたけど、この歳になってお金に余裕が出来、日々こちらが気を遣うコミュニケーションを多くしていると何でもない話しに軽快に相づち打ってくれるのが心地よいなと思う自分がいたw


 孤独を感じてるオッサンがはまるの今なら分かる。


 あと、キャバクラやガルバって散財欲求も簡単に満たしてくれる。基本的にお金って使うの楽しいものなので、そこに人の幸せや感謝の言葉が乗っかるとお酒の力も相まってどんどん使ってしまう。同じくホストにはまる女性も僅かだけど理解できる。


 まあ、現代のオタクは駅前で募金活動してる人見て「募金集めする位ならその時間アルバイトして自分で募金すれば良いのに」と言ってしまう位共感力が低いんで、お金に関しても基本自分の利益優先でしか物事を考えられないんよな。子供の頃お前にお年玉くれた人達はお前の笑顔が見たくてくれたんだぞ。


 ある程度稼げる様になって、お金だけ持ってても孤独な人は多いのだなという事に気づいた。生活がままならないほどかつかつだと守銭奴になっちゃうけど、日々目的もなくお金貯まっていく様になるとふと何かにお金を使いたくなるんよね。パパ活なんかもそういう文脈で当事者の気持ちが分かるんだよな…


 頂き女子相手にお金使う「おじ」とかもお金抱えて孤独に歳だけとっていく事の虚しさとか、自分が周囲や社会から完全に見えない虚無な存在になっていくことの悲哀とか凄いの分かるし。そこに突然現れた若い女の子が至れり尽くせり心をケアしてくれたらお金渡すのも分かる。


 今だとそういったやり取りは「騙された」と表現されるけど、昭和や平成初期にはまだあった人々が抱える心の情景に共感出来る時代ならもっと違った言われ方をしてるんじゃないかと思う。


 頂き女子事件に関してもその実は孤独の埋め合わせをお金でする人々の話なんで、実力のある監督が映画にすれば「パラサイト 半地下の家族」位掘り下げる事が出来るはずなんだけど、世間では金に狂った女と制欲に突き動かされた馬鹿なおじとしてしか見られてない。

 これ、前々から言っている「(オトコにとっての)あそび」の内実、俗に「のむ・うつ・かう」とくくられていたような中身の変遷に関わるお題になるのだけれども、あの「頂き女子」についての「産業化」「マニュアル化」「合理化」の苛烈さと、それがそこらのシロウト(だろう、やっぱり)が平然かつ公然と活用する/できる現在については、また別途言語化しておかねばなので、ここで言及されている客の側、殊にいわゆる「おたく」的消費のありようとの関係について、少しだけ。

 とは言え、ガールズバーはおろか、いわゆるキャバクラも何も、それ系「接待」の場には、つきあいで連れて行かれたような場合はともかく、自ら望んで首突っ込んだことがなく、そもそも酒がほとんど呑めない身にとってはその時点で「あそび」としての敷居が高々とそびえたつわけで、実態については「話に聞く」以上でも以下でもなくなってくる。

 でも、だからこそ、ここで言われているような「カネを使う」こと自体が「あそび」の要素として織り込まれている、といったあたりの事情は、逆に輪郭がくっきり浮かび上がって理解できるような気がするし、またそれらから「さえ」疎外されているらしい、今様「おたく」的心性のありようについても同様に。その、「共感性」が圧倒的に低い、というあたりのことなども含めて。

 「実利がないとお金を出さない」というのは、特に「おたく」に限らずいまどきの「コスパ/タイパ」原理主義的な心性にとっては基本モードではあるだろう。ただ、その「実利」が何か、というのがまさに多様で、他人からみればわけのわからないことに大金突っ込むことに躊躇がないというあたりも、昨今何も「おたく」に限ったことでもないような。

 「酒を飲む」際に「お相手」が必要である、という感覚自体がもう歴史的過去になりつつあるが、それはひとまず措いておくとして、そもそも、その「お相手」つまり「酌をしてくれる」おんながクロウトでなくシロウトで、それもしちめんどくさい手続きや手順など全部抜きにして、そこに行けば一杯いくら、時間なんぼの単位で「実利」として「換金」される、という仕組みが表立つて成立したのが、あの戦前のカフェーだったと言って、まあ、いいはず。つまり、シロウト(の態)のおんなが簡単に「お相手」して「酌をしてくれる」ことが「換金」対象になった、ということだったわけで、それは客の側だけでなく、そういう「換金」業務に従事するおんなの側にとっても、それまであった「あそび」とそこにまつわる商売、つまり「換金」事情についての何らかのタガが大きく外れたということでもあったはずだ。

 あれは高見順だったか、戦前の浅草のレヴュー小屋のダンサー――と言っても10代半ばから二十歳になるならないくらいの、当時のものさしとしては「子ども」に等しい女の子たちなわけだが、彼女たちがご贔屓に呼ばれてお茶や食事に「つきあう」のも「そういうもの」として仕事のうち、たまには後援会めいた集まりに呼ばれて軽く踊ってみせるとか、まあ、いまなら「ファンサ」とくくっていいようなことも普通にこなしていても、そこがいわゆる宴会の酒席で「酌をする」ことを期待されたらそれにははっきり嫌悪感、拒否感を示していたという描写があった。芸人なのだから芸は売るけど、酌はしない、それではダンス芸者じゃないの――確かそんな言い方で愚痴を言っていた。芸者ならば酌をするのも仕事のうちだが、自分たちは違う、というプライドの保ち方。とは言え、その同じ女の子が、プライベートの私的な場では、酒を呑む相手に酌をするのは普通に「そういうもの」としてするのだけれども、でも、ダンサーとして「芸人」として呼ばれた場では拒否する、そういう感覚は背後に「換金」を前提とした場における身ぶりの制御、自意識の持し方の筋目みたいなものがあったらしい。

 それはかつての大バコ系のキャバレーになり、クラブになり、さらにスナックになり、それら家の外で「酒を飲む」ということに「お相手」が付随してくる業態の変遷に伴い、ありようはさまざまに変わるにせよ、いわゆる「水商売」昨今だと「夜職」などと呼ばれるような仕事の大事な生命線として機能してきたのだろう。もうひとつ、それら「のむ」とは別になっていた「かう」――性的な交渉も具体的に伴うもうひとつの生命線とのなしくずしの融合過程もそれなりに伴いながら。

 まあ、つまりは「酒」と「女」なのだ、「のむ」と「かう」というのは要するに。で、もうひとつの「うつ」は単なるバクチ、ギャンブル、賭け事ということだけでもなく、そのようないわゆる「実利」と明快に紐付けられることのない、つまり何のために使われるのかよくわからない、一見ムダに見えるような「カネ」(の使い方)ということになる。「のむ」も「かう」も、そういう意味で「うつ」に下支えされていて、まさに「散財」という意味において共通しているのがそれら「あそび」という理解だったんだろう。

 で、ガールズバーである。カウンターの向こうのおんなに「相手をしてもらう」酒の飲み方、というのは何も珍しくもない。そこらのスナックでもバーでも同じこと、客に酒を呑ませる、またおんな自身も呑むことで、それら「酒」の売り上げが店の儲けになるというのもこれまでの業態と基本的に変わらない。じゃあ何が違うのかというと、おそらくなのだが、これまでそれら全部が漠然と含まれていた「水商売」のありようから、おんなは時給でいくら、酒一杯で「バック」がいくら、「同伴」「アフター」などと呼ばれる店外での「営業」の可否――それが「擬似恋愛」的な意味あいも含めての「接待」「接客」のグレーゾーンだったことなども含めて、ある意味可視化されたことなのではないか。で、それは客の側以上に、働くおんなの側にとってのわかりやすさになっているのが本質なのではないか。
 だから、こういうそれなりに穏当な、ある高度からの歴史文化論的な見解についても、どこかで留保しながら、という歯止めが必要になってくる。「性行為」とひとくくりにする、そうした上でものを考えてゆく――ものを考える手続きとしてのそのような抽象化、一般化には、そうすることによって同時に「考える」間尺から外れる部分も作ってゆく、良し悪し別に必ずそういう働きも伴ってくる。

もともと性行為の価値はそんなにたかくなかったって話なんよ。歴史的に見て一発の性行為の価値は売春婦の値段見れば歴史的にもわかるけどいうほど高くなかった。適正値段どれだけかはわからないけど。江戸時代も花魁ばっかり注目されるけど、売春の基本は夜鷹っていういまでいうたちんぼで、当時の貨幣価値考えてもそんなに高くない。

 たとえば、夫婦間のそれであっても「おつとめ」として理解する、そういう「そういうもの」感覚もまた、世間には普通にあったのだし、またそれは感覚の水準だったりする分、案外そう簡単に変貌したり消滅したりするものでもなかったりするかもしれない、その程度の留保は「考える」を「わかる」に繋げてゆく上では、やはり欠かせない手続きのための手続き、になってくるのだと思う、常に自戒を込めて。