デジタイズされた活字環境、そしてエリジウム風土病・メモ

活字で表されてるものはだいたい校閲を通ってるわけだけど、だいたいの人の話し言葉なんて文字に起こしたら朱字だらけなのよな。

「思想」とかそういうものを考えようとする時、ひとまず文字や活字に残されたものを介してその経緯来歴を云々するのが定石だったけれども、でも、あたりまえだが、それら文字や活字を書き残した生身の人がたが現実に生きて暮していた時代もまた、背景の文脈としてそこに同時に介在していたわけで、な。

 若い人が本に頼らないのが実践的なのかは別として、ネットの“ソースをよこせ”界隈と云うのもなんだかなあって感じです。

 おそらく違和感として共有できるような気がします。「ソース」「出典」を過剰に大正義として要求する態度の宿っているその生身のいびつさ、とかそのへんの問題でもあるのかもしれませんが。

 活字の情報がデジタイズ環境をくぐって、時空を越えて同一の「デジタル情報」の水準で横並びに検索し、かつ読み書きできるようにひとまずなってしまってきている分、ほんまにその水準「しか」意識しない/できない知性(だか何だか)が、そういう自意識ぐるみ標準化され始めているようであります……

 エリジウム的エコーチェンバーというのも、そういうある種の「デジタル環境」の水準「しか」意識しなく/できなくなっているような情報環境が日常生活の下部構造wにがっつり組み込まれた人がたや界隈に特徴的な風土病の症状なのかな、と。

 もとから「真面目」で「優等生」モードで、活字をそのようなモードで読んで処理してゆくことにだけ特化してしまったような人がたや界隈で、伝承されていたそれらモードのまま、ある時期以降の「デジタル環境」に対しても接することしかしない/できない、そういう不自由&不幸のなせる症状としても。

 少し前、TLで一瞬お題になりかかった柄谷的ポンコツのありようや、あるいはたとえば内田樹(誰でもいいが)的な今様リベラル(らしい)もの言いや話法、文法の進次郎並みの奥行き背景深みのなさ、なども、ある意味そういう症状のヴァリエーションor多様性wのあらわれなのかもしれん、とかいろいろと。

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