正解批評主義・メモ

 この評論に過剰な拒否反応を示す引用リツイートみてると、昨今の「批評嫌い」の一因が理解できるような気がする。
つまり作者の想定してない(であろう)読解を「不正解」と見做してるようだ。私はむしろ筆者の誤読と偏見で生まれる見解こそが批評の醍醐味だと思っているのだが。

 SPY×FAMILYを黙々と観ている。一生懸命コメディにしようとしているが、それでも隠しきれない悲惨さが苦しくて仕方がない。偽両親であるロイドとヨルは、その生育史を踏まえると「大人になったアーニャ」である。そんな不遇な彼らは身を寄せ合い生きている。→


 今の環境から追い出されてしまえば、世界は崩壊してしまうというこれ以上ない恐怖と一人で戦っている。そしてそれは誰にも気づいてもらえないし、気づかれてはいけないと信じている。痛々しすぎて、私は泣きながら本作を観ている。多くの人はどんな気持ちで観ているのだろうか。→


 アーニャは他者の心が読めるエスパーという設定になっているが、虐待など不遇な生育史をもつ子どもはエスパーのように大人の心を読む。そして自分の安全を確保するために大人の心を読むのに精一杯で、自分の情緒や願望を二の次にしてしまう。


 作品を観ていても、アーニャの本心には巧妙に触れられない。彼女はひたすらロイド・ヨルの関係性、自分の安全ばかり気にしている。ただ「本当の母親の方がよいのではないか」という虐待とも取れる質問をされた時に、黙ってポロポロと涙を流すだけなのだ。


 この場面の描写からも観て取れるように、そこに触れるとあの冷静なロイドでさえ感情的になる。恐らくアーニャは、自分が本当に感じていることを表に出すことはいけないのだと改めて感じたことだろう。自分は“可愛いアーニャ”でいなきゃいけない。そう固く心を閉ざしているのではないか。


 私は観ながら思う。「そんないい子でなくていい」「もっと怒りや不満を爆発させていい」と。私だってアーニャはとても可愛いと思う。でも、そう思わされてしまう自分が少し嫌でもある。彼女は大人が「可愛い」と思うであろう仕草や言動を熟知している。そうやって生き延びてきたからだ。


 「そんなことをしなくてもあなたは世界で一番可愛いよ」と言ってあげたくなる。Twitterでも度々話題になるように、私は共感性が高過ぎるのかもしれず、私は精神科医には向かないのかもしれない。しかし、これをなくしてどうやって相手に自分を重ね理解するというのだろうか。私にはわからない。


 まだアニメを観始めてばかりである。最後にはアーニャに安心できる居場所が与えられ、孤独が解消されることを願ってやまない。最後まで痛々しいままで終わる「鬼滅の刃」のような結末にはなって欲しくない。それだけを願って観続けようと思う。
#SPY_FAMILY

 このネットで支持を得る「正解批評主義」は、物語を単一の読み方でしか認めないという点で非常に偏狭でつまらない態度だなと思う。例えば「アベンジャーズ」を批評家10人が見た。アベンジャーズは面白い映画である。だから10人皆「面白い」と批評するのが正解である…みたいな社会、楽しそうですか?


 「正解批評主義」は、昨今のネット批評が「考察」という形をとりがちなのにもリンクしてるように思う。みな自身の感想ではなく、「何が正解だったのか」ばかりを気にするようになってきている。さもしい時代だと思う。要は皆「自分の感想」を持つことを恐れてるだけなのではないか、と私は思う。


 余談だが「これは二次創作」という中傷がいくつかあったのが気になった。確かに批評は偉大な作品の二次創作という面はあろう。素晴らしい作品をみて溢れ出た感情の行き先として二次創作が生まれたなら、良い事じゃないか。漫画を愛するなら、このような「二次創作」の用い方をするのはどうかと思う。