元・家なし少女のはなし

 「元・家なし少女」だった妊婦が奢りにきた。麻布十番のイタリアンだ。14歳のとき、彼女は機能不全だった実家から、歌舞伎町に逃げたらしい。彼女には前科がある。


 約10年前、14歳とは思えない大人びたルックスの彼女は、生きるために働こうと思った。しかし、「親に保護されない未成年」は『透明な存在』なので、合法の働き口が用意されていない。


 しかし東京には援交があった。そこには雇用契約がなくて、未成年にピッタリだった。援交だけは『常に見過ごされる、透明な存在である私』を唯一、見過ごさなかった。ただ「ふだんは大人のフリをしている獣」の相手をするだけで良かった。やりかたはすぐに覚えた。


 それでもやはり、未成年は足を見られた。危険な目にも遭ったし、これ以上あまり続けられないと思った。行政に保護されることは、ふたたび破綻した家庭に連れ戻されることだけを意味した。でも、やはり援交をのぞいて、合法で働く方法はなかった。


 法律よりも生活のほうが大切なのは明白であったので、彼女は免許証を偽装し、働くことにした。うまくいくか分からなかったが、それはそれで良かった。どこに連れていかれてもいい。今より虚しい場所はこの世界にはないと信じられたからだ。少なくとも、見過ごされる存在ではなくなれるからだ。


 彼女は「顔写真」以外が姉の情報で構成された運転免許を取得しようと考えた。不幸にも彼女は優秀でそれがうまくいった。しばらく夜の店で働いた。勿論、摘発されるまでの間だ。今は店で出会った客と暮らしている。交際相手はまだ麻布でワイングラスに口つける妊婦の本当の年齢をしらない。


 帰る場所のない未成年は『透明な存在』になる。それは、見過ごしてもいい、とされている人たちだ。


 『透明な存在』である彼女たちが、実際どんなに目に見えて、歌舞伎町の公園やホテル街に溢れていても、社会は「そこには誰もいない」「いないことになっているからだ」、そう呟いて立ち去る。彼女たちは「透明」だから、見過ごすことが容認されているのだ。


 総じて、彼女たちの初体験はレイプである。でなくとも『トラウマティックな性体験』をどこかに持っている。ひとは『透明な存在』を目の前にすると、残虐性のポテンシャルを最大まで活かすことができるからだ。


 『助けを呼ぶ権利のない人間』に行われる残虐な行為は、「見過ごす」という形式を通して、社会的に容認されている。そして、『保護されない未成年』は、それにあたる。


 けれども、『透明な存在』は常に見過ごされてきたので、それがどんなに残虐であっても、じぶんを見過ごさない相手に恋焦がれる。そのシンプルなルールが経済になり生まれた街が歌舞伎町だ。透明な女にとって、私がいないと死んでしまうと感じさせる男たちほど魅力的なものはない。それが仮に嘘でも。


 『透明な存在』は常に見過ごされる。それはたとえば、『これを読んで憤ったあなた』もそうだ。


 「どうして彼女たちは同情されているのに、どうして、どうしてわたしたちは見過ごされるんだ」「けっきょく、どうせまたみんなして見過ごすんじゃないか」


 それもまた、容認されているからだ。保護されない未成年のように、みてくれが悪く能力のない、卑屈で孤独な人間も、常に見過ごされる。


 けっきょくのところ、大切なことはいつも陳腐な結論にたどりつく。繋がりをもって、けして孤立しないことだ。


 見過ごされない方法は、見過ごされる者同士で、けして見過ごさないよう誓い合うことしかない。見過ごされないためには、まず見過ごさないと誓うことだ。


 『透明な存在』が見過ごされない為には、繋がりをもつことだ。繋がりとは、見過ごさないと誓うことで生まれる。


 うまく繋がりをもつことができれば、成人するまで友とトラウマを背負い、ただ待つことができる。時間というものは案外、多くのひとの問題を治癒している。


 バズツイの引用RTの世界で、トラウマと憤りを接着剤にして、繋がりを保ち続ける人々は大勢いる。それでもいい。とにかく、成人するまでやり過ごすことが大切だ。


 友と時をやり過ごしながら、自らのトラウマと友になることで初めて人は成人できる。憎い者とも友になれる、友のあり方がひとつの形でないことを知った人から順に成人していく。そんなところでしょうか。トラウマ愛好家の独り言でした。あえて断定口調で書きましたが、勿論、すべては浮浪者の感想ゆえ。