高級官僚の世界観・メモ

 高級キャリア官僚が、生きていくのには十分なお金があるのに天下りしたり、利権を作ったりする動機が分からないって人がいますが、超絶頭が良くて勉強が出来て、失敗もろくになく出世した人にとっては自分が成果をだして評価される世界が当たり前なんですよ。


 性格が悪くて私利私欲のために成果をだすんじゃなくて、当たり前だから成果を出そうとする。それが優秀な人を動かす根源で、成果をだして分配して権力になるだけで成果と権力があるのが当たり前の世界ってのは、ちょっと想像しづらいけど、存在しています。


 勉強は出来て当たり前、成果は出て当たり前、出世をして当たり前、皆を率いて当たり前。「だってバカじゃないですから私。」って世界があるのを理解してないと、なんでそんなことするんだろう・・・ってなっちゃうわけです。


 自己顕示欲が強い、金銭欲が強いって見方は持ってない人側の考え方で、もってるのが当たり前の人にとっては、「なんで評価されてないんですか?」でしかないわけです。評価されて当たり前だし、金はもらって当たり前だと思っている人の存在を想定してください。


 そういう人たちにとっては、私が世界をデザインするのが当たり前で、徹頭徹尾「イイ事をしている」感覚なんですよ。実際にバカではないから出世もするし評価もされてきたってことは事実なわけです。


 ただし、こういう人たちが失敗しないかって言うと失敗はします。財務省増税路線であり、colabo問題の公金チューチュー構造であったりします。それは「評価を得る」ためにやっていることであって、評価を得れないことでしか覆らないことなんです。


 なので、名指しでやるってのが基本としてとらなきゃいけない戦略だっていうのがわかると思います。評価されるって軸を根本から引っこ抜くんです。それには名指しでやるっていうことしか効果が出る方法がないんですよ。

 霞ヶ関エスノグラフイーw(敢えてこういうベタな言い方がふさわしい)、というのがなぜ、本邦では出現しないのか。

 いや、何もシャカイガクだの何だののガクモン界隈が手がけずとも、調査報道本願のジャーナリズム界隈でもいいのだが、とにかく同時代を同じこの国に生きる人がたのはずの彼ら霞ヶ関に棲息している官僚たちの生活と意見、みたいな素朴な取材ものですら、これまで寡聞にして見聞きしたことがないのには、おそらく何か深遠な事情があるのだろう。

 仕事であれ何であれ、それら霞ヶ関の中の住人がたと行き会う機会は、これまでもほとんどないと言っていいままだったと思うし、ましてや彼ら彼女らが日常常住坐臥、どのような暮らしを送り、どのようなものを喰い、どのように喜怒哀楽を同じこの時代のどこかで見せてくれているものか、などについてはなおのこと、まず知らないまま、すでに高齢者の域に達しつつある。どこかにはいるのだろうが、しかしその具体的な姿は見たことがない。たまに何かの事件やできごとがらみで、新聞や雑誌、テレビのニュースなどでご尊顔が拝見できることはあっても、概ね「ああ、こういうおっさん、ないしはおばはん、ね」という感慨しか浮ぶことはない、その程度に凡庸で通俗でおよそ個性というものの察知されないたずまいの、それでもそれなりにトシを喰っているはずの、肩書きだけはいかめしいガンクビが眼に飛び込んでくるばかり。

 「ルポルタージュ」というもの言いが世間一般の日本語語彙として加わるようになったのは、概ね戦後のことで、それもどうやら写真を介したジャーナリズムがリアリズムをめぐる議論の経緯で熱く語られるようになった、そういう経緯から本邦文脈で広まっていったようだけれども、戦後間もない頃の時期のそのルポルタージュというもの言いに込められていた新鮮な「眼前の事実」への瞠目、自分たちと地続きの現実を生きている〈リアル〉の追体験といった値打ちを、その後「調査報道」だの「ニュージャーナリズム」だの、時期に応じてそれなりに提灯つけられもてはやされた、いずれ「取材」「調査」の類を介して成り立つ表現を司るとされている現場は、さて、どうしてこうまで忘れ果ててしまったのだろう。

 ああ、そうか、たとえば去年の秋口あたりからにわかに表面化してきていた「タワマンブンガク」系のテキストなども、机上の走り書きのように見えながら、でも、読み手の「読み」にとっては、もしかしたらそれら属性の今様後継物件になっているのかもしれないな、とか、あれこれとりとめなく想起しながら。