おサヨク/リベラル界隈、とweb環境

 web環境が整備されてゆく過程で、いわゆるおサヨク/リベラル界隈がどうしてあれほど自分たちに有利な環境になると脳天気に信じることができたのか、問題のその背景と来歴について。

 「ネットワーク」というもの言いが少なくとも日本語環境では「ツリー」≒近代官僚制度的なるもの、に対抗する/できるイメージとしてそれ以前、概ね70年代前半あたりから文脈を少しずつズラされながらも継続的に刷り込まれてきていたらしく、「インターネット」もその延長線上にプロットされたこと。

 それは別の角度からは「文字」に対する「声」なり「話しことば」といった図式にも重ねられて、たとえば「噂」をそれまでのように制御抑制すべき混乱混沌といった方向でなくむしろ積極的な「祝祭」w的脈絡で称揚したり、不定形な交通のありようを対抗文化的にプラス評価する習い性を正当化していった。

 「ネットワーク」が自分たちに有利、という想像力≒妄想の内実は「反体制」「反官僚制」や「地下組織」などの断片的イメージを「反近代」「反資本主義」がさらに漠然とくるむような脳内お花畑で、それらが同時に自分たち以外の世間一般にまで平然と使い回されるようになることは想定外だったとしか。

 ある種のエリート主義が「ネットワーク」にからんで、それが「若者」幻想と複合してさらにフィルター化したところも。武器は誰が持っても武器で、タマの向く先もまた何でもありという「道具」と「技術」のある本質についての想像力のいびつさ、もまた。

 「メディア」論「情報社会」論といった足場に好んでそれら左翼/リベラル系の、それも当時としてはまだ新しい動向に敏感だった若い世代が依拠したがるようになり、それは容易に記号論だのシミュラークルだの(何でもいい)などことばともの言いの空転状況に嬉々として巻き込まれてゆくことになった印象。