社会学系の世代論や現代文化批評みたいなブツも、行きがかり上たまには読まにゃならんこともあるが、ほんまに見事なまでに薄味で表面なでただけ、それでもイキりスカし気分と自意識丸見え文体がこれまた型押しみたいな工場出荷設定ぽい横並び、というそのモード自体がもう何か考察対象になるレベルとしか。
概ね70年代以降生まれが主体で、ということは概ね40代の「氷河期/ロスジェネ」世代で、非常勤や任期制であれポスト就いとらすのはそれら氷河期/ロスジェネ世代の「優秀」物件なんだろうし、実際活字の書籍になっとるんだからある意味「勝ち組」のうちなのかも知れんが、でもこの人がたこんな視点&文体で何が「わかる」になっとるんだろ、と老害化石脳的には。
概ねゼロ年代このかたの、何というのか、かのゲンロン界隈っぽい視点&文体の横並び定型化というか、なんでそういうのが社会学だの文芸批評だのの人文系アカデミアw正規軍(だろうに、一応)の衆の間に「そういうもの」として共有されるようになっちまっとるんだろうなぁ、と。
彼らを「指導」するなり何なりして方向づけしてきたのがその上、60年代生まれのそれこそ50代、要は「新人類/ポストモダン/ニューアカデミズム」世代だったりするみたいなんだが、そのへんで人文系アカデミアw正規軍にうっかりハマっとる人がたの価値観・世界観・自意識習い性などが背後で構造的に悪さしとるところがどうやらありそうな気がするんだが。
まあ、そんなこと言うたらかつてだって吉本隆明っぽい文体なり何なりが横並びに蔓延しとったりしたわけで、そりゃいまどきとは情報環境もまるで違うしそもそもその蔓延の規模や影響範囲も異なるだろうけど、でも雑に言やそういうことの地続きの現象なのかも、なところはないでもないか。
「アクロス」っぽいのよね、老害化石脳極私的印象としては。
『アクロス』ってのはこんな雑誌。アマゾンで引っ張れるのがこの時期のくらいしかないのだが。*1
あの当時イケイケのパルコが出していた雑誌で、ある時期からは「流行観測」という冠がはっきりつき始めてたはず。てか、まだ出てた。http://www.web-across.com/about.htmlwww.web-across.com
■『ACROSS』とは?
1977年に設立したパルコのファッションとカルチャーのシンクタンクが運営するメディアです。1980年8月より毎月、渋谷、原宿、新宿の路上で同時に観察・インタビューする「定点観測」をベースに、東京の若者とファッション・カルチャーを研究しています。
■コンセプトは「ストリートファッション・マーケティング」。生活者のリアルな姿を捉えるため、「ひと」×「モノ」×「まち・場」をカルチュラルスタディースの観点から観察・分析しています。
■主な読者ターゲットは、東京のリアルなトレンドが知りたい「カルチャー・クリエイテイブ」な人たち。
(1)クリエイティブ・ピープル:あらゆるジャンルにおいて、主に若者をターゲットにした「ものづくり」に携わる人
(2)マーケティング/リテールに関わる人:マスコミ、広告代理店、シンクタンク、リサーチ会社、百貨店、専門店、小売店などの現場の人
(3)インテリジェント・コンシューマー:消費行動に「能動的」に関わり、それをより深く考えよう、より広い見識を得ようとしている「賢い」消費者(生活者)、プロシューマー
なんかもう、まんまいまどきシャカイガクというか、こういう目線と発想とで「東京」を、つまり今や堂々トーキョー・エリジウムと化した全国区雛型消費文化の牙城殿堂の現在を「観察・分析」する、という「コンセプト」自体、ある時期からこっちの広告代理店的自意識の上澄み通俗普及版のような。むしろ、〈いま・ここ〉を問いとしていた人文社会系のガクモンのある部分がこういう自意識と地続き融合していった過程のなれの果て、というのが、いまどき新書類の現われとしても、なのかも知れんけれども。*2
まあ、引用や参考文献の並びっぷり一瞥したら型押し横並びになるのもある意味納得せんでもないが。こういうラインナップで〈いま・ここ〉を見る(つもり)のが「正しい」という言語空間がアカデミアwとそこに関わるメディア界隈含めて構築されとって、それに違和感覚えんようないまどき風「マジメ」が複合、と。
かつての「アイドル研究会」(あったのよ、慶應とかそこら中に)の連中が書いてたアイドル論なり何なりの文体から受ける印象に近いっちゃ近いんだけれども、ただ決定的に違うのは「なんちゃって」気分が前提にないらしいこと。韜晦あって初めてアイドルだのサブカルは「論」として成り立ってたわけで。そのへんの韜晦や「なんちゃって」気分、が担保あるいは留保しとったかも知れん部分、も含めて、いろいろ要考察だとはおも。
おそらく、なんだけれども、かつての「アイドル研究会」その他に共有されていたような気分とはもう初手から別モノ、棲息領域や生態系が「違う」という認識が前提にあって、「でもやるんだよ」という投企wのひと跳びをココロ励ましてやらかすための「なんちゃって」だったというあたりの機微などがもう、わからんようになっとるんだろうな……
そもそも「大学/大学生」が「アイドル(何でもいい)研究会」立ち上げて大マジメにやっとること自体「なんちゃって」や「(笑)」だったわけで、な……初期の「漫研」なんかも基本同じだったはずで。それがおおっぴらにガクモンだのアカデミアwだのにすんなりドヤれるようになるまでの絶望的な距離感。
昨今論われる「冷笑系」というくくり方にしてもあれ、そのへんの「なんちゃって」「(笑)」がかつて確実に担保していた自己留保や韜晦、そしてそれを足場に何ものかに対して「でもやるんだよ」と腰上げて(゚∀゚)アヒャってゆく気分を方法化してゆくための手立てだったことなどが見えてない言い草かと。
「すごいだろ、あれ、本気で大マジメにおベンキョとして、ヘタすりゃ立身出世や世渡りの道具としてやろうとしてんだぜ」
「うわぁ……恥ずかしくないんかな」
「てか、やってて愉しいんかね、ああいうので」
何度かウェーブがあるように思いました(・ω・)ノ 80年代にサブカルチャーと学問的物言いの幸福な戯れがあった後、湾岸戦争からオウムを経てしばらく実体論回帰して、ゼロ年代にふたたびアニメやゲームが真剣に批評されるようになり、3.11あたりからまたそんな場合じゃない空気になり……と。
アニメやゲーム、ラノベあたりも含めて、そのへんの新たに参入してきたサブカル(と一応くくっとく)を当事者として生活歴の中で切実に感じる世代がオンステージしてきたことによる盛り上がり、がゼロ年代あたりからこっちの「サブカル批評/研究」(だか何だか)のありようを規定しとる印象があります。
*3
*1:80年代はもっと脂っこくギラギラテカテカしてた。中の人に知り合いや仲間もいなくはなかったし、彼らは概ねマジメで誠実な「調査/取材」屋という雰囲気で仕事としてもつきあいやすかったのだが、ただそんな彼らが中の人として仕事をして出してくるアウトプットがあら不思議、見事にこちとらなどの仕上げたものとは違うテイスト、異なる商品になっていたことが何度もあって、同じような調査/取材の過程をくぐって同じような素材やデータを元にしていても、こういう「違い」が出てくるものなんだなあ、といつも思ってた。
*2:このへんは単に書き手の資質や目線の問題のみならず、編集者など含めた活字の生産点まるごとの問題なども含めてのこと、なのは言わずもがな、だとおも
*3:『アクロス』について少し補足気味にデータなどを。190130