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「公」だの「公共」だのに対する意識やリスペクトが昨今、絶賛後退し続けているらしい。ということは、おそらく「将来」「未来」「明日」に対するそれら意識やリスペクトもまた同じように「どうでもいい」になりつつあるんだろうと思う。そうならざるを得ない理由その他もいまどき十分あるのはわかるにせよ。
官僚や政治家など、「将来」「未来」「明日」を良くも悪くも見据えて仕事してもらわねばならないはずの人がたでさえ、というか、そういう人がたから率先してそうなっとるような印象すらないでもない。そりゃ、公務員試験だの何だののお勉強の過程で「公共」とは何か、みたいなことは教科書的に、最大公約数的に楷書体で刷り込まれとるんだろうけど、その言葉やもの言いと眼前の現実や自分自身が日々生きとる〈リアル〉とがびっくりするほど紐付いてないのもまた、当たり前になっとるとしか思えん事案が昨今珍しくないわけで。
何よりも、いくらお勉強で言葉やもの言い刷り込んで、その関連と手癖の習い性任せにそれらしい能書き繰り出せるようになっても、日々の日常でそういう「公」「公共」(≒「世間」でも可)に対する意識や感覚が、他ならぬ自分自身が社会化してゆく中で共に醸成されない、できないようになっているような人がたが、それらいまどきの「意識高い」「優秀」系だったりするらしい。それはそれこそ大都市圏私立中高一貫進学名門校的な「世間」しか真実察知できないような日常で社会化してそのまんま一流大から公務員その他へ、的な見事な定型都市型エリート、トーキョーエリジウムネイティヴな「ザ・一級国民」な来歴の人がたのもたらす弊害というやつで、それはやっぱりかつてのそれらとはまたひと味もふた味も違う形や文脈で、露わでのっぴきならない社会的問題になってきているんじゃないだろうか。
いわゆる「公務員悪玉論」的な感覚は、そりゃポピュリズムとも複合していて現実的にアレなところもあるんだが、ただそれでも、そういう違和感や不信感の類を世間一般その他大勢のレベルで抱いてしまう理由や背景というのも、結構根の深いところで確実にあるとおも。「改革」幻想の「民俗」レベルというか。まあ、このへんは「世直し」のイメージの「民俗」レベルでの連続/不連続などとからめて考察してみにゃあかんのだろうが、そういう迂遠でわけのわからない (そりゃそうだろ、世間一般だけでなくいまどき「優秀」「合理的」な人がたからは) 目線など昨今どんどん「しまわれて」しまうご時世になっとるわけで、な。
*1:例の「新しい公共」だの何だの、意識高いいまどきインテリ知識人界隈がある時期からこっち「公共」てな言い方を盛んにするようになってるのも、これまでのようにわざわざ言語化しないところで本邦「公」が半ば「そういうもの」として、それこそ「民俗」レベルにかなり足踏み込んだところも含めての「常識」的範疇として成り立たなくなってきた状況を、いよいよ最終的に反映しているんだと思っている。そのへんも含めてのお題の一環として、これまた今後もさまざまにgdgdと複合してゆくはず。
*2:「しまっちゃうおじさん」のこの漠然とした否応なさ、についての肌ざわり手ざわりについては、今世紀に入ってこのかた、それこそ平成の半ばこのかたの本邦状況においてこそ、より広く実感されるようになってきていると思う。このへんもまた別途、機会があれば。