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「弱いものいじめ(・A・)イクナイ!!」的な言わずもがなになっていた「常識」の水準に、敢えて言語化可視化させて「政治」文脈の武器として振り回す作法への素朴な「民俗」レベル含めた違和感嫌悪感、ってのは、かつての社会主義者なり左翼なりの身ぶりや現前に対する「アカ」などのもの言いの内実に。
「公正」はそれなりに維持され担保される仕組みがある、と大方の世間一般その他おおぜいが(それ以上しょうがない、も含めて)「常識」として共有していたところに出現した「それまでと違う作法&身振り」での「公正」像とその創出&維持の作法の「異物」性、について。
それは概ね半径身の丈の「公正」でなく、一気に大文字な「社会」の「構造」「仕組み」からして「公正」にしてゆく、という一点からしてまず、(゚Д゚)ハァ?……(つд⊂)ゴシゴシなものだったはずで。
それまでもそういう荒療治的なものはあったし、たとえば「一揆」「世直し」なんかそうだけれども、ただそれは「社会」の「構造」「仕組み」を言葉とリクツとで「客観的」に整序して「認識」した上での動き方、では必ずしもなかった(忖度表現)わけで。それもまた、「そういうもの」の土俵の上で動いてゆくもの、ではあったというあたりへの認識や配慮や斟酌忖度の類が、「大文字」の「公正」前提のその実現にうっかりココロ奪われた人がたにゃまずなかったというあたりの不幸&不自由、どっちの側にとっても。
「一揆」「世直し」と「革命」の違いと(実は)違っていないところについて。
たとえば、関東大震災時の「(朝鮮人)虐殺」(と言われるもの)についても、そういう脈絡含めた解釈なり「わかる」の試みってまだほとんどないままだったりせんのん?「そういうもの」としての「公正」への毀損という危機感とそれの回復運動、という「民俗」レベル含めたダイナミズムも含めての。それってでも、これまでの「先行研究」をマジメに言われた通りに全部「読破」する、的な方向でだけいくら頑張ったところでおそらくまず気づくことのできない「わかる」のありようみたいで、な。
前から言うとる「デバッグ」的な「読む」をどこまで意識した上で、それら「先行研究」と共に〈それ以外〉のとりとめない「雑」を淡々と補填してゆく視野・視角を持てるかどうか。何よりそういう「デバッグ」的「読み」がいま必要だわ、と切実に自覚できるかどうか。そういう視線・視角・視野からしたら、「(朝鮮人)虐殺」をめぐるあれこれも、たとえば(何でもいいけど)60年安保をめぐるあれこれも、「できごと」としては同じ文脈で見るor「わかる」ことは可能なんだけど、な。