「書き講談」と「ジャーナリズム」の間

  「書き講談」の話法文法と、いまどき(だけでもなく)「ジャーナリズム」話法文法との関係、ないしは相互浸透について。もちろん、その「書き講談」の前には「語りもの」としての講談の話法が下地にあったわけで、それら「語りもの」の話法文法が本邦常民「民俗」レベル含めた〈リアル〉の主要な媒介項だったらしいことなども含めて。*1

 この「作り物の安心」というあたりも、立ち止まって考えてみる必要があるかも知れない。

 「安心」とは「ひとまず納得ゆくように説明、ないしは解釈を提供してもらう」ということでもあるのだとしたら、それは常に「作り物」という意味での「おはなし」であるところから逃れられないわけで、それに対してどこかに「本当の」安心がある、という発想はそれ自体がある種のイデオロギーになってゆくようにも思う。

 もしもその「本当の」という前提に見合う何ものかがあるなら、それは「誰もが概ね納得ゆくような、ああ、そういう感じなんだろうなぁ、と得心できるようなその他おおぜいレベルでの説明」ということでもあるだろう。そういう「本当」というのは、すでに概ね誰もが疑うことのない、それこそ「民意」なり「気分」なりに同調したものであり、だからこそ「本当」として共有されて落ち着いてゆけるようなものであるはずだ。言い換えれば、その他おおぜいが概ね妥当と思える、感じられるような説明や意味づけ、解釈のありよう、ということで、それを「おはなし」の枠組みで提示してゆくことが最も合理的であり、かつまた現実的でもあるというあたりが、「ジャーナリズム」と「芸能」の地続きになってゆく領域に関わってくる。

 大和の沖縄特攻の記事では、大和が敵艦を攻撃して撃沈する様子を見て喜んでいる沖縄の兵士の談話とか載っています。すさまじいばかりです。そりゃ、兵隊が「天皇陛下万歳」と叫んだことになっていても全然おかしくない。こうだろうーとイメージした記事のなんと多いことか。

 戦艦大和が敵艦を攻撃している、というのは「交戦した」という「事実」があれば容易に導き出される要素だろう。たとえ、現実にはそれが圧倒的な敵の航空勢力に襲撃されて一方的な防戦に等しいものであったとしても。そこから「敵艦を撃沈」はある種自然な増幅、「語り」の方向に「盛る」手癖であり、となると「それを見て喜ぶ沖縄の兵士」というのも、大和の海上特攻の目的が沖縄の陸軍への援軍であるのだとしたら(それは概ね当時の常識になっていたのだろうし)、「語り」のメディアとしての新聞報道としては「あるべき」要素として「光景として」浮かんできて不思議のないものかも知れない。

 ここでは「事実」から、おそらくは書き手の記者の内面、ココロの裡にあるひとつの光景なり情景が「自然に」広がってきているらしいことがうかがえる。ことばと、そこから想起されるイメージの問題。そしてそれらのイメージがそれまでの情報環境において醸成され伝承もされてきたらしい「語り」の話法や文法に、おそらくその生成の過程においてそれまでと異なる「力」を、ある種の不用意な喚起力を付与していったかも知れないこと。

 個々の文字や言葉が論理的に文脈的に導き出してくるイメージというだけでなく、それより素早く瞬間的に「浮かぶ」シーン、情景としてのイメージの鮮烈さとその強制力。ある意味詩的でもあり、その先にはおそらく「うた」などとも隣接してくるであろうココロの動きの領域。それこそ、浪曲浪花節を「眼をつぶって」聴くのが作法となっていったおそらくは大正末期から昭和初期あたりを境とした、本邦常民その他おおぜい的なココロの作法の変貌の過程などとも関わってくる問いだろう。

 うっかりと瞬間的に「浮かぶ」視覚的な情景、というのがその「感動」をそれまで以上に強くしてゆき、文字のリテラシーを介して現実に関わらせてゆくことを半ば自動的に要求してゆくようになる。それまでならば「夢見がち」程度のその場の状況的な、そしてその分個人的な範疇でですまされ「処理」されてもいたような種類のココロの傾きが、視覚的な情景を介してうっかりと誰にも共有されるものになってゆき、その結果、ただの「夢見がち」に収まることのない現実への環流の回路までもが広汎に開かれてしまってゆく情報環境の問題。

 ガダルカナル島の記事を見て思ったんですが、主語(部隊名とか)も日時も伏せ字なら、何だって書けるということですよね。検閲とか言論統制という面からしか考えたことがありませんでしたが、ある意味で全能感を持って、本気で講談を書いてもいたのかも。国民の不安を取り除くのが仕事だと思って。

 伏字で匿名性が保証される、ということは、単に「事実」との紐付き方を制限することで重要な機密が漏れないようにする、という表面的現実的な実利のレベルだけでなく、そのことによって「おはなし」の話法文法が「語り」の方向へと解き放たれてしまうことを許容するトリガーにもなっただろう。匿名だから「事実」との紐付き方も自由度が高まり、だからもともと内包されていたにも関わらず「事実」や「報道」の表面的現実的な実利の約束事が拘束具として働いてもいたものが、一気にその内包されていた「語り」の方向へと動き始める。「おはなし」は「語り」の調子、それらの呂律に動かされ始める。

 戦時下の新聞は、一緒に戦争を盛り上げた側面も大きいです。戦意高揚の事業もありましたし。負け戦でも題材を探し虚構でも盛り上げるのが使命―という人も多かったと感じます。ただ、戦死者を最大限たたえたいという感情だけみれば、そういうわなに落ちる危険性はいつの世も変わりないと思います。

 こういう解釈、意味づけはそれ自体、誠実なものだろうし、ある水準で正当なものとして許容されルだろう。事実、最大公約数的にはそうなっているし、概ねそれらを許容する範囲が「良識的」として受け入れられてもいるらしい。

 だが、「事実」と「報道」という実用性の枠内で自らの仕事を律することを求められていた現場の生身たちにとって、のっぴきならない現実にまるごと身体ごとで直面し、「事実」を全身で受け止めようとし続けてゆく中で、同じ生身の中の官能や身体性などもひっくるめた領域が全く先に言ったような枠内に収まっていられるものでもなかっただろう、というところにどれだけ留保してゆけるか、それがおそらく「歴史」という干涸らびたもの言いに新たな息を吹き込み、〈いま・ここ〉の日常性身体性の水準と身近に切り結んでゆけるようないきいきとした相貌を垣間見せてやるために、重要な試金石になってくる。

 たとえば、その「虚構でも盛り上げるのが使命」というひとくくりでうっかり表現されている、その部分の内実について、当時の情報環境におけるメディアの生産点に関与していた生身の感覚や気分と、さらにそこに内包されてもいただろう「民俗」レベルも含めた「歴史」性の領分についても併せて少しずつほどこうとしてみること。「報道」や「ジャーナリズム」というもの言いにもまた、先に触れたような「歴史」と同じ構造、共通する不自由がすでにまつわっていること、少なくともそれが日本語環境で日本語を母語とする枠組みで自分たちの現実を記述してゆこうとする際、たとえ漠然としたものであってもまず最前提として認識しておかねばならない逃れがたい桎梏であることを、ゆるやかに共有してゆく「関係」と「場」を少しずつ拡張してゆくことしか、明日への可能性は現実のものになってゆかない。

*1:「はなし」と「語り」の身体性に関わる水準での何ものかの喚起力の違い、さらに「うた」にまで派生してゆくことでなおのこと流動的で感染性のものになってゆき、それだけ定着性や記録性から遠ざかってゆくこと、まただからこそそれらの要素や属性が付与されてゆくことで「秩序」にとっては攻撃的で剣呑なものになってゆくらしいこと、などまで視野に入れながら、要検討お題として今後かなりgdgdとこれもまた、の気配。