官公庁と民間企業とが対立する関係だっていうの、資本家と労働者の対立を隠蔽するためにネオリベが広めた嘘だよね。実際には官公庁と民間企業とは天下りや出向の形で人的交流もあり、考え方も一体化してるけど、一般労働者はそこから疎外されたままだから。 https://t.co/xH419wY1aq
— ジャッパの星 (@loira294) 2019年8月6日
「官と民の対立」というのはフィクションだし、また「企業は運命共同体」というのもそう。正確には、民の中にこそ労資の対立があり、官は中立を装ってむしろ資本の走狗に過ぎないということ。
これからは資産家・経営者・役人・コンサルが人脈と情報をがっちり共有する支配階級を形成し、その下でその他大多数の情弱な庶民が競争によって分断され孤立する社会になります。
さまざまな「分断」がさまざまに語られ、そしてそれらの語りを足場にまたさまざまな疑念や憎しみ、疑心暗鬼の類が同胞の間に宿されてゆく。それが〈いま・ここ〉の現実の、本邦バージョンの一角らし。是非もない。それが21世紀、前世紀の疾風怒濤をくぐり抜けた極東の果ての島国の現実。
とは言え、そのさまざまの中にも濃淡がある。濃淡もあれば、遠近もある。眼にみえやすい分断や懸隔が遍在化すればするほど、その向こう側で見えにくくなる領域が生まれ、そこに埋められてゆく分断もまた。
「階級」というのはおそらく、そういう見えない領域に埋められてゆく分断のひとつに昨今、なっているらしい。
ここで指摘されている「官と民」というのは、ある時期からこっちわれら同胞の世間一般その他おおぜい的にわかりやすく意識されるようになってきている分断の図式ではある。それはそれで確かに「ある」のだと思う。思うが、しかしそれが「ある」ことと、それらがわかりやすく意識されるようになることで隠されてゆく分断の「ある」とが常に釣り合うものでもない。
雇用する側とされる側、労働を提供する側とそれを換金して自らの生産に投入して利益を得る側、そういう図式≒フィクションを世界に遍く通じる「普遍」として流布していったこと。そのような「普遍」はそれまでの一神教的な下地とあいまって予想以上に迅速な浸透力を持っていったことと共に、異なる神を戴く場所にも予期せぬ受け入れられ方をされていった。20世紀はそのように幕を開け、そしてあんなことやこんなことやそんなことや山ほどあった果てに〈いま・ここ〉に至る、と。
改めて「階級」を考える必要がある。少なくともそうする必要が切実になってきている〈いま・ここ〉があるらしい。意図しなかったとしても世界中に「分断」をまんべんなくばらまいた図式≒フィクションとして。そしてそれは未だになお、〈いま・ここ〉から眼前の現実を手もと足もとにくっきりと扱えるものにする道具だてとしてはそれなりに有効なのだからして。
「官と民」という図式と、「階級」という図式――ここでは図式としては「労資」≒「労働と資本」に敷衍されてもいるが、それらは共に同じたてつけの中で整合性を持たせられることもあった。前者は主に「政治」の脈絡で、後者は「経済」という脈絡で、それぞれ意識されることが多かったが、それらが「社会科学」といったより大きな土俵でつきあわされ、何らかの整合性なり辻褄の合せ方なりをあれこれされて、何となく「そういうもの」にさせられていたところがあった。少なくとも学術・研究的な意味での「ものを考える作法」としては。
「企業≒「民」が運命共同体」ならば、「「官」も運命共同体」だろう。そして、これは昨今の状況ゆえ強調しておかねばならないのだろうが、その後段、「運命共同体」という部分もまた、おそらくかなりの程度悪い意味での図式、ここでの言い方に従うならば「フィクション」としてしか理解できなくなっているのだと思う。「分断」とは昨今、ある意味その裏返しとしての「共同体」「共同性」の〈リアル〉が煮崩れていることの表現なのでもある。
「公と私」というもうひとつの図式≒フィクションも、近年また別の脈絡で前景化してきている。時に「貧困」や「限界●●」といったもの言いとも併せ技で。「自助・共助・公助」などという言い方もにわかに注目され、あれこれ議論にもなる。それらもまた、これらさまざまな「分断」を表現する図式のひとつではあるが、だがこれもまた、「階級」由来の「労資」系図式との整合性を落ち着いて考えてみなければ、うっかり振り回せない道具のはずだ。
「分断」と感じてしまう〈いま・ここ〉の〈リアル〉があり、それにどのような説明をしてゆくのか、そのためにさまざまな図式≒フィクションが持ち出されてくるのはいいとして、そしてそれは今に限ったことでもないのだけれども、ただ、それら持ち出されてくる道具としての図式類が相互に整合性をあまり考えられないまま、恣意的思いつき的に、それこそ「キーワード」的に背景も文脈もバラバラに繰り出されてくる、そんな混沌がTwitterなどSNSのつぶやき戯れ言はもとより、学術研究からジャーナリズム、政策立案の現場に至るまで、統制されぬまま放置プレイになっている印象。〈いま・ここ〉を認識し、意味づけ整理してゆくための道具としてのそれら図式ですら、互いに制御されない/できないまま単発的かつ散発的発作的に繰り出されている。
「階級」的な図式の出自にあった「左翼」的なるものへの違和感や不信感の表出もまた、以前よりはるかに広く浸透してきているのは確かだが、それに伴いその表出のかたちもまた粗いものになっている。「左翼」や「共産党」といった単語ひとつに漠然と全てを背負わせるような話法が、素朴な善意と共に公然化してきていて、もちろんそれは同時に「右翼」「保守」的なるものへの違和感や不信感の表出の現在としてもきれいに合せ鏡であることは、かの「ネトウヨ」というもの言いの公然化の過程を少しでも立ち止まって省みれば明らかだろう。