「眼」と「耳」のリテラシー・雑感

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 ようわからんけれども、それまでの「絵画」「芸術」的なビジュアル表現の脈絡での「描写」や「スケッチ」などとはちょっと違う意識が介在してきとるような気がしてならんのだけれども、門外漢かつ漠然とした問い過ぎて手に負えんからとりま仮留め程度で。

 まあ、今和次郎にしたところであれ、もともと建築が専門で「図面」扱っとったわけで。柳田の民家調査に絵描きのパシリ(言い方悪いが)的につれてかれとったりするわけで。

 柳田はそういう「ビジュアル」リテラシーが薄い分、かなり「耳」の人だったはずで。長谷川伸なんかはあれ、「耳」の人と言われてるけどそれだけでなく、実は「ビジュアル」リテラシーもかなり濃かったりする。

 このへん個体差だけでなく大きな意味での「世代」差みたいなものも介在しとるんでないか、とずっと思うとる。ブンガク史なんかのリアリズム論争とかそのへんも、それら現実認識の個々の違い、世代による偏差なども補助線にしたら別の何かが見えてきたりもするわけで、な……(´-ω-`)

 本邦ポンニチ常民の〈リアル〉って、どうも「耳」介して「語り」的な話しことばがないことには、「眼」介した視覚的映像的な情報にも〈リアル〉が宿りにくい、みたいな感覚があったような気がするでな。それこそ活動写真の弁士からのぞきからくり、講談が浪曲に負けていった過程などなどひっくるめて。

 のぞきからくりの「説明」がバナナの叩き売りのそれと同じだったことの意味。具体的なブツを見せながら、でもそれを擬人化して(台湾娘、とか)「語り」の「説明」を「耳」介して叩き込むことで初めて何か〈リアル〉になってゆく、という回路の謎。「擬人化」はビジュアルだけの問題でもないらしく。

 上演の「場」と「関係」においてほどいてゆくことで、その「語り」による「説明」≒意味づけor解釈がどういう気分、興奮なども含めたキモチやココロの動きをその「場」に立ち上げるものだったのか、とか。

 たとえば、別の例として紙芝居。あれも子どもたちが熱狂したというのは総論そうだと思うけれども、戦前までのそれとは視聴の仕方(ヘンな言い方だが)が変わっていった過程もあるんじゃないか、とは思うとる。写真にあるように群がって熱狂というのは戦後のある時期以降顕著になっていったのでは、という当て推量だけれども。

 まあ、どっちにしてもマチの子どもら限定とは思うが、遊びの中でベーゴマからメンコに移行していった過程、とかそれに伴う「資本の原始的蓄積」感とそれに後押しされて「越境」してゆく頻度や度合いの変化とかいろいろ補助線引いてみながら考えると紙芝居の視聴環境も一律ではなかったようにおも。

 あと、関連してラジオのそれも、なあ。戦前の農村部ではラジオの音って異様に響き渡って聞こえたらしくて、それは昭和期になってからの新たな農村部の情報環境の経験として記憶されていったらしいんだわな。同じくマチでもラジオの聴取経験ってのも刷り込まれとったはずで、な。

*1:このへん、広い意味での「情報環境」の問題なわけで、ただそれを前提にしながらどのように個別具体の「場」や「関係」、そしてそこに立ち上がり得たはずの「上演」などを同じ水準でまとめて記述してゆくことができるか、というのは数十年来、おそらくこの先もにわかには整理しきることのできなさげなお題ではあり。