ググって見つからない、断片も存在しないものは、自分自身の記憶の中にも存在しないもの、になりつつあるような気がする。記憶装置の外化、という「便利」と引き換えに、自分自身の生身の「体験」や「経験」のありようも変えてしまっているところ、あるのかも知れない。その場その場の「おキモチ」ばかりがピーキーに立ち上がり、でも、それらはその後も蓄積もしなければ醸成もしない、というような。「おキモチ」だけが「体験」として刷り込まれてゆく、というような。
たとえば、攻殻機動隊のあのおっさんにしても、むしろweb上の「情報」として「家族」の記憶がある限りは目覚めなくてすむようなことになっとるんかも知れない。 懸案の例の「もうひとつの歴史修正」症候群にしても、そういう「体験」「経験」と「記憶」の関係 (専門的な語彙準拠な定義その他はひとまずご容赦)が微妙に変わってこざるを得なくなっている昨今の情報環境が悪さしてのこと、というのはありそうではある。
ググって見つかるもの、画像映像の類も含めて「情報」として言及され、web上に存在しているものこそが「エビデンス」として「歴史」を作り上げるようになりつつあったりして、たとえそれが断片や痕跡程度のものであっても。でも、それって「文字」が出現して書物その他の形態で蓄積されていった過程でも起こっていたこと、かも知れないわけで。文字から遠い日常を生きる folk≒その他おおぜい、にとっての歴史&現実と、文字に依拠した現実も生きる人がたにとっての歴史&現実の乖離が起こったように、web情報ネイティヴな新世代の〈リアル〉と文字活字ドミナントな旧世代のそれとの乖離が始まってるのかも知れない。
とは言え、さらに考えてみりゃ、カメラが普及してそこらの家に写真アルバムが存在するようになっていったことで、そこに映されている光景ベースに「記憶」が再編制されてゆく過程はすでにあったような気もする。「小さい頃の記憶」に写真というメディアが否応なく介在するようになっていった過程。写真が、ビデオなど録画媒体を介した映像・動画に置換できるようになっていった過程も含めて。違う方向から考えりゃ、貨幣が出現して普及してゆく過程でも似たような乖離は起こっとったはず、ではある。