女子社員教育のむかし・雑感

だいたい、新人女子をみていると三種類に分けられる。一つは、いわゆる男勝りの勝負師というタイプ。その次はまったく逆で従順そのものの良妻賢母型。第三番目は戦後とくに増えた型として、どうせ一生この会社にいるつもりはない。要領良く適当にやっておこうというタイプですね。

 この時点でのホワイトカラー労働の現場での「女子社員」――当時はBGと呼ばれてたが、世代的には概ね昭和10年代の戦前生まれの戦後育ち。ものごころつく過程は戦前で、その後戦後の大混乱期の価値転換を同時代の「若者」として成長し生きてきた人がた、ということになる。

 これ、当時の日経連の専務理事の発言なのだが、問題にされているのはこの三番目、「要領良く適当にやっとこう」というタイプ。会社でだけいい顔して装ってもらっているのでは困る、全身全霊で本気でにこやかにしていてくれるよう社員教育をする、という趣旨のことを続けて言っている。

 求められている水準が、ありていに言って「職場の潤滑剤」的な「女の子」身ぶりベースなのは、まあ、当時の時代性として、その上で指示された仕事(概ね雑務系だが)をちゃんとこなしてくれる、そういうことを「社員教育」の目標として施している、と。

 ここでも、ある意味で「嫁入り修行」の一環として、女子社員に対する社員教育を当然のように「そういうもの」として考えていたらしいことが見てとれる。少なくとも、そういう文脈も留保しながら読まないことには、おそらく当時の時代性含めての「読み」にはうまく届かないものと思われる。

 もちろんまだ当時は、総合職として会社に定年まで勤めることなど全く想定されていない、雇う側の意識としても、嫁入り前のお嬢さんをお預かりしている、という感覚。まさに「腰掛け的」な「お勤め」であり、その意味で「嫁入り修行」の新たなバージョン程度の認識でしかなかったろう。

 雑務をこなす「給仕」「少年」「学生」「書生」といった存在の中に、戦後の過程で「女の子」もまた入り込んできていたこと。「女の子」が「家父長的な庇護」の効いた環境で「働く」というのは、つまりそういうことだった。*1

 戦前、カフェーの「女給」というのは、もちろん「女」の「給仕」ということだったのだろうが、それが不特定多数の「社会」の視線にさらされる仕事の中に語彙として組み込まれていたことの当時の同時代的な意味や内実もまた、昨今ではもう意識をそのように仕掛けないと見えなくなっているのだと思う。

 ならば、それは当時同じように普通の語彙としてあった「酌婦」と、どのように連続/不連続だったのか。「酌をする」ことと「給仕」の仕事との違いとは何だったのか、とか。

 あるいはまた、「女優」と「女給」の間の連続/不連続、とか。