1970年を「まだ飢えと欠乏への恐怖が社会に幅広く共有されていた頃」というのは、ちょっとどうかな、と……「まだ飢えと欠乏の記憶が社会の多くの大人の間にあった頃」くらいかなぁ……(*゚ー゚) https://t.co/fBy2BTWYqr
— king-biscuit (@kingbiscuitSIU) 2022年2月10日
1970年を「まだ飢えと欠乏への恐怖が社会に幅広く共有されていた頃」というのは、ちょっとどうかな、と……「まだ飢えと欠乏の記憶が社会の多くの大人の間にあった頃」くらいかなぁ……(*゚ー゚)
すかいらーくは1970年創業、敗戦から25年、まだ飢えと欠乏への恐怖が社会に幅広く共有されていた頃。安くて美味しい料理という一言にどれだけ多くの人々が惹かれたかわからない。元々は小売業なので、良品廉価というのは創業者の横川四兄弟にとって疑いようのない共通のテーマだったと思う。
東京オリンピックが終わりテレビがカラー放送になって既にウルトラマンや仮面ライダーやサザエさんが放送されていた大阪万博の年であっても、減ってたとはいえ東北から中卒で都市圏に就職する子達はいたわけで。『俺ら東京さ行ぐだ』が流行る頃まで地方によっては飢えと欠乏は隣合わせだったかと。
その文脈だと「地方」というより「階層」に移行しつつあったような気はします。
あと、「おら東京さ行ぐだ」の時点(1984年)ではもうとっくにそういう「東京or中央/地方」「マチ/イナカ」の落差についての社会的イメージは、ほぼなめされ切った段階だったかと。だからこそのパロディ的「なんちゃって」感覚、デタッチメント前提でのある種ひと捻りされた上での浪漫だったかと。
「マチ/イナカ」落差が連綿とあり続けて来て、それこそ「向都離村」と「帰去来情緒」の複合の「ふるさと」憧憬が近代このかたずっと本邦同胞常民新世に沈潜してきたのが、高度成長以降の70年代から80年代にかけての時期に一気に〈いま・ここ〉から「離陸」させられていったような印象があります。
「戦後」とひとくくりに数十年、今となっては70年以上をそのわずか二文字熟語に放り込んで取り扱ってしまうワヤを、未だわれわれは平然とやっている。それこそ、「そういうもの」としての手癖習い性、深く考えることすらなく、ほんとにbotのごとくに。
もともと「戦後」とは、「戦後派」というくくり方で、ある種の世代論として浮上してきた語彙だったように思う。それは同時に、世相風俗論でもあり、それこそ敗戦後の世相の〈いま・ここ〉のとりとめない猥雑さ、何でもありの混乱の極みの中を活きるわれら同胞の、特に若い世代のはじけっぷりに瞠目してのことだったらしい。
アプレ・ゲール、というフランス語由来のもの言いが、「アプレ」と短縮され、それがその「戦後派」的なレッテル貼りとなって、当時の敗戦後の世相に突出して見受けられた若い衆世代を中心としたあらわれかたに対しての、ひとつの便利な合切袋として使い回されるようになっていた。「戦争の後」だから「戦後」、それがある世代に特徴的な行動として眼に立つようになったのだから、ひとつの派閥的に見えるから「戦後派」、と。
「奇妙なフランス語が流行している。アプレ・ゲール文学――訳せば戦後派文学だそうだが、どう考えてみても世界には通用せぬ和製外国語の一つである。アプレ・ラ・ゲール(戦後)という言葉が特別の意味を以て用いられたのは第一次世界大戦後の数年間であった。良い意味ではなく悪い意味だ。戦争の残して行った生活と道徳の頽廃を一括してアプレ・ラ・ゲールと呼んだので、例えば性生活の極度な混乱、浮浪児と淫売婦、座席のこわれた列車、虚脱、自棄、絶望の押売、闇成金、暴力、ヒステリックな革命騒ぎ、インフレ、悪い酒、悪い料理、悪い礼儀、悪い文章――これらを見ると勝ったフランス人も負けたドイツ人も肩をすくめ両手を拡げて異口同音に言ったものだ。「おおアプレ・ラ・ゲール!」」
もとをただせば「文学」の一派、当時の真善美社に集まった「これまでの日本の文学の伝統というものを国際的視野に立って再検討し、世界文学に通ずる道を発見しようとした」新人たちの旗印だったということだが、それが敗戦後の世相の混乱一般にまで敷衍してひとくくりにするのに便利で適切な印象を与えたらしく、広く使われるようになったというのが経緯らしい。
そこから「戦後」だけが抜き書きされて、永らくそのまま使われるようになったのは、やはり「敗戦」が本邦世間一般その他おおぜいの意識の銀幕において、ある決定的な不連続、越えがたい段落をつけたような強烈な区切りとして刷り込まれるようになったことも大きかっただろう。「戦後」と言っておけば、それはまごうかたない現在≒〈いま・ここ〉であり、そこから地続きにあの「敗戦」まではつながっている、しかしそれ以前の「戦前」とはすでに断ち切られ、「関係ないもの」になっているという免罪符をくっきりと立ち上がらせる効果もあった。そういう意味では、「戦後」というくくりの中での現在≒〈いま・ここ〉を自明で絶対的な「正義」として認識する/させる呪文のような性格も付与されてきたのだと思う。
ただ、その「戦後」も手癖習い性でだけ使い回され、bot化してゆく中、気がついたら昭和から平成、それも終わって令和の御代になっていて、時間にして70年以上のんべんだらりとひとくくりにしてしまう知的怠惰や精神的横着も何のその、未だに「戦後」の日本は、われわれの社会は、といった枕言葉は、さして疑いもなさげに使い回されているのは、なるほど奇観ではある。
そんな「戦後」の内実を〈いま・ここ〉からもう一度、ほどいてバラバラにしてゆくこと。たとえば10年ごと、あるいは何らかのメルクマールでの区切りを仮につけておいて、それぞれの画期における「戦後」の使われ方、イメージのされ方について、測候する地点をいくつかランダムにでもいいから置いてみて、それらをざっと繫いでみて何が見えてくるのか、やってみるのも素朴に悪くない。
大学に場所があり、学生若い衆らの演習の手ほどきなどにも結構使えるお題だと思ったりしたのだが、ああ、それもまた、懲戒解雇喰らった無職老害化石脳の身の上には、例によって詮無いことではある。