「正しい」のホモソミソジニー共同体・メモ

 どんなリクツ、どういう能書きや意見、考えを繰り広げようともそりゃ勝手次第だが、ただ一点、そこに「愛嬌」や「可愛げ」といったものが響いてこないのは、その書き手話し手自身に、世にある人として何か本質的な欠陥があるのだとおも。

 その意見やその背後のリクツなりを、文字づら言葉づらにおいて「だけ」受けとることを何か「正しい」ことのように強いられてきていることによって、おそらくそうと自覚のないまま、同じ「正しい」を強いられてきた者同士の「そういうもの」感をよすがにした仲間意識みたいなものが産まれるらしく。

 あの「ち●ぽ騎士」的なるもの、というのも、おとこだおんなだといった軸でだけ承認欲求充足に血道をあげる習い性をこじらせた結果のあらわれ、というだけでなく、もう一枚ひっぺがしたところで、そういう「正しい」を強いられてきた者同士の「そういうもの」感という疑似血縁感覚があるのかも。

 でも、その「正しい」を強いられてきた者同士の「そういうもの」感、というのは、それ自体が言葉本来の意味での「イデオロギー≒虚偽意識」であり、またそれこそ「男社会」「家父長制」w的ホモソミソジニーなるものから醸成されたもの、てな解釈も成り立ったりせんのだらうか。

 「リベラル」を自称し、またそのように立ち回る人がたが、全体主義的な心性を自ら醸成してゆき、何よりそのことに全く無自覚らしいだけでなく、「正しい」をよすがにしたホモソミソジニー的疑似血縁感覚、シャレならんくらい排他的な仲間身内内輪意識を持ってしまうものらしいこと。

 「リベラル」と「ファシズム」の結合、という事態が――そのような言い方で言語化することが現実的な対応策や解決の糸口を見つけようとする上で有効かどうかはともかく――当の「リベラル」をいまどき自称、自認されとらす人がたには、どうやら理解以前、そもそも認識すらできないものらしいこと。

 「メタ認知」の欠落、とか何とか、言語化の仕方はあれこれあるにせよ、「どうしてそうなる/なったか」という根本的な謎について言葉にして、何らか対処する手立てを考えようとするなら、そのいまどき「リベラル」自称、自認の界隈にとっての「言葉」のありようから対象化しなければならないらしい。

 これが日常化、常態化しつつあるらしいことは、それこそ「魔族」が身の回りに浸透してきているということでもあるわけで。「異文化理解」「多文化共生」的能書きも、そのような「魔族」の言葉でしかなくなっていることを、半径身の丈の間尺においてどのような足場を構築することで伝えてゆけるのか。