単に二枚舌で恥知らず、なだけの「こんな人たち」

 ここにきてようやく、と言っていいのだろう、本邦のフェミニズム界隈の近年、あまりにも常軌を逸したていたらくに対して、素朴な反感や違和感がまとまった形で表明され得るようになってきたようで、ひとまずそれは喜ばしい。

 言わずもがな、のことだが、それは別にフェミニズムの思想がどうこうといった話でもない。そんなムツカシい話では全くないのだ、ほんとに。

 そんなことよりはるか以前に、およそ無自覚な二枚舌、自ら発していた意見や見解、立場の表明に対して、違う状況になればきれいにそれと反することをいとも公然と発言、およそ「反省」「自省」といったものが生身の裡に実装されていないとしか思えないほどに、恬として恥じないその態度そのものに対する反感や違和感、不快感が醸成されていった果ての、世間一般その他おおぜいのごくごく普通の、あたりまえな感情の発露ではある。敢えて言挙げするなら、まさに「常識」をものさしとしての当然な異議申し立て、主義主張能書きの中身以前にまず「あんたら、常識あるおとなとして、それは通らんだろう、いくらなんでも」というレベルでの、圧倒的に日常の口語体での、世間一般その他おおぜいの生活者気分からの表明だと言っていい。

 それは、単にフェミニズムジェンダー論といった、およそ限られた狭いガクモン世間の半径においてだけでなく、広く社会に対して何らか「もの申す」立場をあらかじめうっかり明確にしてしまっているような界隈、それもかつての凡庸で、だからその分いたく無邪気だった床屋政談の類でもなく、すでに何らかの大文字の主義主張、ある政治的立場に依拠した偏狭で硬直した発言や行動を自ら「正義」として、洗脳されているとしか思えない自閉ぶりのまま、衆を恃んだ「運動」「行動」としていつでもどこでも飽きずに行なってみせるような人がたの間に、実は驚くほど広い範囲にすでに共有されてしまっているもの言いや身ぶりに対する反感や違和感、不信感としてまで、ひろく敷衍されるようになっている。

 それらの人がたは、ひとまず「サヨク」「リベラル」と呼びなされるようになっていて、その定義は措くとしても、たとえ便宜的にせよ、そう呼ぶことで「ああ、そういう人たちね」という理解までもが、いまやそれなりに共有できるようになってはいる。他にもっといい呼び方があればいいと思うし、これまでの思想的な語彙としての「左翼」「リベラル」とも明らかに別もののもの言いではあるのだが、まずは仮にでも名前をつけておくことの効果において、ひとまずそれはそれ、現状の方便として認めておいていいのだろうと思っている。だって、それはまさに「こんな人たち」という意味なのだ、とりあえずは。

 一方、そう呼ばれる「こんな人たち」の側からも、そのような呼ばれ方をされることに対して、「ネトウヨ」などという呼び方を、まるで鏡に映ったようにしてみせるところまで含めて、現われとしてはいまやワンセット。元は「ネット(に棲息、跋扈する)右翼」ということなのだろうが、同じひとくくりのレッテル貼りだとしても、そのもの言いの解像度は、先の「サヨク」「リベラル」よりも格段に低く、かつ粗雑なままなのが通例。単に自分たちをほめてくれない、共感してくれない、つまり「承認欲求」を気分よく満たしてくれない、という属性だけでひとからげの、まさに「藁人形」。まるで洗脳されたカルトのごたる、というこれまた素朴な感想までも、子どもですら抱いてしまうくらいに、それはもう取り返しのつかないレベルにまで蠱毒化しているらしい。

 この「人として」というあたりのことに、どれだけの含みがあるものか。「こんな人たち」は未だ気づけない。そしてそれが、思想信条、政治的立場などでは全くなく、それを宿す生身の人間、ごく普通の意味での一個の「おとな」としての信頼性が根本的に欠落しているとしか見えないことへの違和感であることにも、「こんな人たち」は意識できない。さらに、そのような状態でもなお、そのことに全く無自覚、無意識で平然と同じ身ぶり、同じもの言いを横並びに繰り返して、世渡りしようとしてゆく鉄面皮にこそ、いま、世間一般その他おおぜいレベルでの非難が、これまでと違う広さを伴いながら合焦しつつあることに、いい加減気づくべきだと、ほんとに思う。