犬には犬の、オンナにはオンナの幸せも

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 飼い犬のことを命をかけて守れる男性が、飼い犬に人権があるとは思っていないし、外に出るとき鎖に繋いでおくことを悪いことだと思うわけでもない。犬を人間だと思わなくても犬のことを心から愛することはできる。けれど犬は犬で、人間として扱うのは間違いだし犬のためにならない。


 「父・夫は私のことを愛してくれている」は「父・夫は私のことを人間だと思っている」に繋がらない。男性が女性に持つ愛を否定しているわけではない。自分の犬の能力を誇りに思う男性だって多い。だからと言って犬に自分と同じことができると思っているわけではない。


 だから多くの男性の言う「非の打ち所のない女性」って「素晴らしく訓練された美しい犬」みたいなものです。それだけです。

 フェミニズムの、というよりも本邦日本語環境におけるそれらの、あまりと言えばあまりな無理無体難題押しつけ上等なもの言いや態度その他に対する違和感不快感、いや、そんな輪郭確かな感情以前に「ああ、これ相手したらあかんやつや」的「そういうことね」な解釈がすでに広く静かに発動されるようになっちまっていること自体、なるほど時代というのは変わるものであり、その変わる場合も実にこういう具合に言外の気分の共同性をテコに変わってゆくものらしいのであるなあ、と思ったりする。

 ここで例によってTLから拾ってみた一連の箴言というか警句のようなものにしても、なるほど、ちょっと見確かに一理ありそうな気にさせられるし、そうか、そういう具合に♀の人がたってのは♂の側からはニンゲン扱いされてないという意識を根深く抱いてこられたのであるなあ、とすんなりうっかり自省させられたりもする、まあ、その程度にゃいまどき本邦世間を生きているキンタマぶら下げたイキモノらにとっても、こういうフェミニズム系のもの言いにはまずは素直に頭を垂れて傾聴し、立ち止まる習い性が刷り込まれているらしい。

 ただ、すんなりうっかりってのはやっぱりまずいわけで。たとえば、この箴言的なもの言いの「犬」というのを別のものに置き換えてみたらはて、どうなるのだろう、とか思ってしまうのは、やはりこちらの性格がまっすぐでないせいなのだろうか。

 犬には犬の幸せもあるかも知れない、いや、犬「にも」犬の、と言い換えてもいい、そういう留保や(ことば本来の意味での)忖度、斟酌の類が人のココロにはあり得るし、それがあるからこそまだ同じこの世に共に生きてあることもできる、そんなものだったりしないのだろうか。「多様性」や「個性」といったもの言いにおそらくきっと本来はらまれているはずのどうしようもない彼我の違い、そこに根ざした前向きな諦めの静謐さみたいなものがあって、そうやって初めて「お互い」を尊重できる、そういう〈リアル〉。*2

 「違う」ということはその程度に残酷で苛酷でどうしようもなくて、でもだからこそそこにまず「えい、しゃあねぇじゃねぇか」と思い切りつつ、とりあえず自分の足でしっかり踏ん張ってみようとすることからこの世の「現実」なんてものも、他でもないおのれ自身で何とかせにゃならんという覚悟も宿るものだったりしないのだろうか。

 オンナ「だけ」が不当に抑圧されている、そういう前提が自明になっちまっているらしいことも留保できないような了見のままだと、オンナといった大文字のくくりなどよりはるか以前、当のおのれ自身すらおそらくまともにラクになったりもできない。オンナ「だけ」が、という前提がそのまま、自分「だけ」が、と地続きになっちまっている不幸。いや、ことの理路としては、自分「だけ」が、がいきなり大文字に短絡しちまっているんだろうけれども、その筋道すらもうわからんようになっているから、大文字のオンナと自分とが距離感違和感ほぼないまんまに同一視されるようになっているらしく。自分がまずあって、その自分の属性としてのオンナならオンナがあって、それをとりあえずことばにすれば大文字になる、そういうことに過ぎないはずなのに、大文字がまずありき、という具合にいきなり裏返しになってしまう不思議。大文字の、別の言い方すればある程度以上の抽象化や概念化がされたことばやもの言いを自分の個別具体といきなり短絡させてしまうような、そういうことばと生身の関係についての作法が「正しい」と刷り込まれている症状。「学校」的言語空間とももちろんなじんでしまう、だからそういう文脈で容易に「評価」され「承認」されるようなことばともの言いについてのありよう。

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*1:いわゆるフェミニズムジェンダー論界隈モンダイ。あまり正面から相手にしたくないのにも理由はあるわけで。

*2:どうして「犬」「飼い犬」という比喩になるのだろう、という問いも、また。おそらく「自由」な野良犬が対置されたりしているんだろうか。でも、野良犬は確かに「自由」で「自立」しているかも知れないが、でもその分、どれだけ苛酷な〈リアル〉を生きねばならないのか、そのどうしようもない宿命についてはこういう比喩をこういう具合にしか使わない、使えない人がたはまず考えの外、らしい。

*3:たとえば、違和感のささやかな表明としての、こういう言明。少しずつでもことばにしようという意志は世に現われつつあるらしい。 note.mu note.mu