奢り/奢られ問題・雑感――または「水くさい」の「政治」について

 奢り/奢られ問題、割とずっとしつこくくすぶっているように見えるのだが、あれって、いまどきよくあるジェンダーだのフェミニズムだの何だののありがちな語彙とたてつけとでどうにかできるようなものなのだろうか、と、ふと。

 パパ活その他、昨今のポリコレ正義釘バット武装乞食化した本邦オンナさんがた界隈の一部の行状が悪目立ちしすぎているところもある分、奢り/奢られ問題も初手からかなりそっちに引っ張られてしまって、余計にハナシがこじれとるようにも見えるし。

 オトコはオンナに奢って当然、割り勘させるなんてオトコの風上に置けない――要はこの考え方が「そういうもの」として自明にあたりまえにしっかり維持されていて、さらにそれが昨今のポリコレ正義釘バットブーストで無敵化している、まあ、ざっくり言ってそういう状況が、本邦オンナさんがたの間にまず、あるらしい。

 で、こういう考え方はもちろん、「男女平等or対等」という、いまどき最大公約数な社会道徳の原則に反するように見えることから、ほらまたいつものダブスタ、オンナさんがたの身勝手なムーヴだ、といった方向での反感、違和感もあたりまえに湧いてくる、それもまたよくわかる。というか、まあ、当然そうなってくるだろうな、と思う。

 そうなってくると、話はもうどうしようもなく、オトコだオンナだ、ジェンダーフェミニズムだ、といった一連かつ一群のもの言いや語彙に従って展開してゆくのも致し方ないわけで、そうなればもう、末路がどうなるかも含めて、見えすぎるくらいに見えてしまうし、何よりそれが見えた瞬間から、実のある話になりようはずもなく。

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 だから、である。

 まずはその、オトコだオンナだ、ジェンダーフェミニズムだ、といった一連かつ一群のもの言いってやつを、ちょっと棚に上げて禁じ手にしたところから、あらためて考えてみた方がいいのではないか、と思うのだ、この奢り/奢られ問題ってやつは。

 先取りして言ってしまうと、これって男女どうこうひとまず関係なく、頼りになる、信頼できる人間、つまり「リーダーシップ」についてのあるべき姿というかありようをめぐっての共通理解がぼやけてしまっている、そういう状況が前提にあるのだろう、と。奢り/奢られ、という局面からだけ問題が可視化されているけれども、そしてまただからことがゼニカネ金銭とその損得といったフェイズに持ち込まれてしまっているけれども、でも、そういう意味では要するに、半径身の丈感覚をベースにした「頼りになる人」「頼っても構わない存在」についてのあるべき姿、について一定のかたちが見えなくなっている、そこが実は本質的な問題になっているのではないか、ということなのだが。

 話がわかりやすくなるだろうから、こういう挿話を示してみる。例によって、半世紀以上前の古書雑書からではあるけれども、そこは為念&あしからず。

「同志二人と地方遊説に出かけたとする。上野から仙台まで、もちろん三等切符を3枚、停車場では立て替えておく。汽車の中での弁当も、仙台で数日泊まる安宿の払いも、帰りの切符代も出しておく。これは運動の先輩として、また年輩の先達として当然のことかもしれないが、同行の「同志」は、それで一切負担してくれたものと思っていると、東京へ帰ってから、汽車賃・宿賃その他一切の立て替え分を合計し、三で割って、他の二人から立て替え分の返還を請求する。いわゆる割り勘である。要求する側は、主義や運動と金とは別だと信じているのだから、立て替えの返済を要求するのは当然だとごく自然に考えているのだが、二人の「同志」は、意外の感にうたれ、憤然とする。自分たちよりは多少とも生活にゆとりがある筈なのだから、貧乏暮らしに追われながら「主義」のために殉じている自分たちから何も割り前を取らないでもよかろうに、と。そこで、気の毒な次第だが、「主義」を共にする者たちの間では、あいつは金銭にきたない男だ、というような評判が立つようになる。」*1

 挿話の舞台はさらに昔、戦前は明治末から大正期にかけてのことで、それを挿話として紹介しているのも半世紀以上前、という時間差があること、そして何よりもこの挿話に出てくる関係は、オトコだけで成り立つ当時の世間――表沙汰「そういうこと」になっていた「社会」のたてつけにおいて、であり、その限りでは、いまどきジェンダーフェミニズム界隈の語彙でいえば、ホモソーシャルミソジニーな「正しくない」関係においてのこと、ではあると言えるかもしれない。「社会」が、そして個人として自立し尊重しあうことのできる人間関係があたりまえに成立しているような「正しい」ありかたに世間がなっているのならば、このようなことにはならない――それくらいの「正解」もまた、いまどきのこと、たちどころに引き出されて問答無用、まさにいまどきポリコレ的「正義」に沿った言説が、半ば自動的に大量生産されてゆく顛末まで見えるような気もしないでもない。

 けれども、ここであげられているような「同志」的なあてこみが、個人として自立し尊重しあうことのできる人間関係と、正反対の方向に作用していることに、いまどきの人がた、殊にそういうポリコレ的「正義」を「そういうもの」として自明にうっかり実装してしまっている向きなどは、さて、どれくらい本当に気づき、立ち止まることができるのだろうか。

 「水くさい」というもの言いがある。というか「あった」。半径身の丈のふだんの人間関係において、必要以上に距離を置こうとしたり、あるいはそのように見られたりすることについての評言のひとつではあり、またある時期までは普通に使い回されるものでもあった。水で割って薄められたものの味気なさ、酒であれ味噌汁であれ、そのような物足りなさを一発であらわし、共有できるもの言いとして便利なものではあったと思う。

 え? 奢ってくれないの?それって「水くさい」んでね?――問題の契機となった、自分が招待された呑み会に、そこに招待されていない友達まで複数引き連れてやってきて、それらも含めて同じようにあたりまえのように飲み食いしてみせていたといういまどきオンナさんの、割り勘にするから、当然でしょ、と言われた時の困惑、あるいは忿懣というのは、ぶっちゃけそういうことだったのだと思う。

 少し前、ある時期までならば、「水くさい」という批判的なもの言い一発で片づけられて、またそう言われれば、内心、あつかましいなあ、と苦り切りながらも、でもそう言われることがその「同志」的関係、会社でもそれ以外のプライベートな関係でも、その後そのような関係と場における自分の立場に影響するのも明らかにわかるから、苦笑しながらでもその「あつかましい」要求を受け入れる――まあ、そんな経緯でことが落ち着かされ、制御されてゆくのが普通だったろうし、まさにそれも「そういうもの」としての処理のプロトコルになっていたはずだ。

 そう、いまどきそういうオンナさんがた、パパ活やら何やらも平然とやってのけられるような人がた――「港区女子」「でさえも」(いや、もしかしたら「だから」かもしれないのだが)、未だにそういう「水くさい」というもの言いを介した半径身の丈の関係の「政治」を、おそらくほとんど無自覚に、ではあるだろうが、実は見事にきれいに駆使しているらしいのだ。

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 このへん、ここからあれこれいろいろと問いの枝葉がさらに繁りまくるハナシだとは思うけれども、とりあえず。

 
 

  

 

*1:いつもTwitterでは敢えて引用元などつけないのだが、ここは示しておいた方がフェアかも、と思うので。この挿話は片山潜についてのもので、元はその「同志」の側であった吉川光圀や西川光二郎、赤羽一などの書き残したものから、戦後、大河内一男が抽出して要約してみせたもの。『日本的中産階級』1960年(文藝春秋新社)