「おキモチ」の背景について

 生身が生きてある以上、常に必ず伴ってくる感情の領域を、初手から「あってはならない」ことにしてしまう「学校」的たてつけの抑圧が日常にも浸透してゆくことで、それに対する反発もまた日常を生きる生身に蓄積、醸成され続けるわけで。

 しかも、その一方で「個人」の「自由」は日常の情報環境を介してうっかりと許容され続けるから、立ち居振る舞いとして許され続ける放埒の圧力が、さらにその「あってはならない」ものになってしまった感情や内面に常にかかり続けているというヤバい状態が常に、と。

 制御するたてつけを自覚的には見失ったままの感情や内面の領分を抱えながら、でも「自由」な「個人」であるという肯定だけは厳然と維持された「自分」≒いまどきの主体は、意味づけて〈いま・ここ〉の現実に紐付けられるべき筋道を与えられない内面、つまり「おキモチ」を垂れ流すようになるらしく。