お金に換算されない「魂の領域の仕事」ってのはあって、例えば家族の中で誰か1人はその家族の抱える歪みを背負う役になったりするけどそれは“魂の仕事”なんよね。それはきちんと何らかの形で報酬や評価をしないと家族関係は悪化する。
— 散歩 (@joybuda) 2023年5月6日
お金に換算されない「魂の領域の仕事」ってのはあって、例えば家族の中で誰か1人はその家族の抱える歪みを背負う役になったりするけどそれは“魂の仕事”なんよね。それはきちんと何らかの形で報酬や評価をしないと家族関係は悪化する。
家族の歪みを抱えた結果ニートになってる人に対して「お前何もしてないやん」的な態度をとると本当は最重要な仕事をしてる人にそういう言葉を吐いてる最悪な奴としてお天道様はあなたを評価することになる。
この歪みが国家規模で起きてるのが今の日本だと思う。高い報酬を得てる人、それほんまにお前の力やと思わん方がええでということ。
国家の歪みを魂で引き受けた結果表向き何もできない感じになっている人というのは大勢いる。それを無視して実力主義的なものの見方をするとそんな国にはお天道様は力を貸してくれなくなる。
神様がふたたび引っ越してきてくれるような国にするにはそういう魂の領域の仕事について全員が理解している必要がある。
「魂」とだけ言うしかない、とりあえず「そういうもの」ではある、のだと思う。それが本当にしっくりくるもの言いかどうかは別にして。
割とよく引用する挿話なのだが、長谷川伸があの自伝的な記述『ある市井の徒』の中で、眼に見えない何かに自分は「まもられていた」という感覚を抱くようになったことを、確か幾度か違う場面でなにげなく述懐している、あの感覚などにもどこかで通じているのだろう、と思う。
「おかげ」という言い方も、本邦にはあった。「おかげさまで」という、最近はあまり使われなくもなっているあの定型の挨拶の仕方。いや、挨拶とまでもゆかない、日常の人間関係の中で、それをうまく流してゆくための潤滑剤的な何でもないもの言いになっていたけれども、あれはご当地北海道の「なんもだよ」「なんもさ」というのにも、もしかしたらゆるく通底している気分なのかもしれない、とも。ある意味無責任、主語がどこにあるかもわからない、だからこそ何もかもあいまいに片づけてしまうための便利なもの言いとして使い回されてはいるものの、でも、敢えて立ち止まって考え直してみれば、「おかげさまで」と使われる底意はなるほど、どこか通じていそうなところはある。
誰の「おかげ」なのか、どういう経緯でその「おかげ」と言いたくなるような恩恵なり「まもられていた」感覚が宿るようになったのか、などについては一切具体的に説明はない。ないし、おそらく必要もない。その「おかげ」の効能についても、何か個別で具体的なトクがあるということでもないみたいだし、クスリの効能書きみたいな箇条書きにされるようなものでもない。また、特定の個人、どこかの誰かにだけ選別的に与えられるものでもないらしい。誰にでも、それこそ「この世」に生きてある限り、誰もがそれなりに蒙ることのできる恩恵、それがあるのだというある種の信心、理屈や能書きを並べなくても「ああ、そうだよね」「そういうもの」という感覚だけでひとまず納得できて、もちろんそれ以上踏み込んで考えたり言葉にしようとしたりすることもない、そういう感覚。
「お金に換算されない」というのは、そういう意味での、日々生きてあるこの世を否応なく縛っている日常の論理、ゼニカネ金銭がらみの現実というのとはひとまず別にところでの「そういうもの」ということになるのだろう。日々の日常がゼニカネ金銭がらみのあれこれに縛られている、という感覚が一方であたりまえになっているからこその、そこから乖離したもうひとつの別の水準での何ものか。それは「救済」であり「福音」であり、まあ、そういう方向に翻訳してゆくのならばまさに信仰や信心、宗教とでもいう領分に足踏み入れざるを得ないようなものだろうが、でも、どうやらそこまで踏み込む必要もないように思われてもいるらしく。
違う言い方をすれば、それは「損得」と関わらない領分でもある。ゼニカネ金銭が最もわかりやすいのだろうが、でも特にそういう換算だけでもなく、小さな事であれ「損か得か」というものさしで日々、われわれは否応なく考えざるを得なくなっている、そのものさしをひとまず忘れられ、放り出したところでの、その限りでは不条理で納得のゆきにくい領分。で、それもまた日々生きている以上、どんな形であれ避けられないものではあるということも、みんなどこかで承知はしている。「損な役回り」を引き受けざるを得なくなる、あとづけでわかってしまう場合も含めて、そういう局面は生きている以上、誰にもある。それらを全部「救済」する呪文としての「おかげさま」なんじゃないか、とはずっと思っている。あるいは、誰に対しても軽く声をかけて言う、あの「ご苦労さま」という言い方、さらには「お互いさま」などまで含めていいのだろう。
ノブレス・オブリージュ、などというもの言いも知らぬ間にそれなりに浸透してきてるようだけれども、あの「ノブレス」にしても同じこと、生まれながらにして「銀の匙」をくわえているような、それこそ「親ガチャ」に勝って誕生してきたわけでなくても、その後の世渡りの経緯で、何かのはずみでこの世で「得」な立ち位置や役回りになった者、昨今だと「勝ち組」などとも呼ばれるような存在であれば、必ずどこかでこの「おかげ」の領分を意識し、自覚しながら自身の立ち居振る舞い、言動を制御しなければならない、それを怠っていればどこかで必ず「バチがあたる」――そういう感覚。「魂の領域の仕事」というここでの表現は、それら「おかげ」の領分についての自覚をあらためて促すために使われているのだろうな、と。