「恋愛」「純愛」の「おはなし」化・メモ

 「恋愛」というのが、どういうイメージ、どういう内実で最大公約数的に共有する/されるようになってきたのか、についての歴史民俗的な経緯来歴について、少なくとも戦後このかたの過程についてだけでも、あらためて言語化する必要ありかと。

 男女不問で、そういう「恋愛」についての「そういうもの」としての理解が、「おはなし」介してどのようなものになってきていて、そしてそれがどのように現実以上に、うっかりと〈リアル〉なものになってしまっているのか、なども含めて。

 性的な関係や、その前提にそもそもあるはず/べきの「性的存在としてのありよう」についての、すでに収拾不能なまでにとっ散らかってしまったあれこれのワヤや難儀についても、前提としてそれら「恋愛」についての「そういうもの」理解とそれを共有してゆく「おはなし」のたてつけがどうなっているか、をまず下敷きにせんことにゃ、おそらく問いの見取り図すら整理でけんようにおも。

 それこそ、艦これもウマ娘も、あるいはお腐れBL薄い本系のあまた創作の類も、「恋愛」の、それも「純愛」(言い方ともかく)モードの定型の「おはなし」を下敷きにしたたてつけが威風堂々、国民的教養として厳然と存在していることを表わしとらんだらうか。

 本邦「人文系」なり「人文社会系」なりが、まだまともで正気を保っていた頃なら、それこそ「学際的」「共同研究」を組んで、ああでもないこうでもないやりつつ、世間一般その他おおぜいの理解も裏打ちされ得る可能性はあったんでないか、といまさらながらに。

 どうしてそれがほぼほぼ無理かつ不可能になってしまったのか、というあたりから改めて自省&言語化せにゃあかんワヤな現在なわけだが、世間一般その他おおぜいと共に共有されていた「読書人」的な「教養」という大きな解釈枠組みがここ四半世紀から30年の間に煮崩れ果ててしまったこと、は最前提かと。