路上で勧誘される、ということ・メモ

 僕は路上で勧誘されやすいタイプの人なんだけど(髪の毛が緑になる前からそう)、いつだったか中野駅の北口で若い女子二人に勧誘されたことがあって、ヒマだったので付いていってお話を聞いてみたら、二人とも准看の卵だった。
主旨は確か宗教勧誘だったと思う。


 で、「ふむふむ」「ほほーん」と相づちを打ちながら話を聞いてたんだけど、「人命を救う仕事の末端にいるが、自分達はまだ学生で差して人を救う力になれてないので、それが歯がゆくて信仰に救いを求めたのだ」とまあ、だいたいそういうようなことを言っていた。


 見た感じ、狂信的って感じでも正義に酔ってるって感じでもない、人当たりのいい真面目そうな人々だったんだけど、そういう人々が信仰とかに「走って」しまうのは何でかなというと、「善意」と「自身への無力感」と「焦り」が綯い交ぜになって、ああなっちゃうんだなー、て。


 もしアレで、「悪いのは自分達じゃない」「自分達を不幸にする存在がいて、そいつを懲らしめてやらねばならぬ」っていう衝動で、「救済」をどうにかしよう、みたいなほうに流されてたら、あの子たちはきっと「ナントカ運動」とかに絡め取られてしまっただろう。


 じゃあ、「新しい信者をどっかで捕まえてこい」をノルマにする信仰に身をやつすのがマシだったのか、というとまあそこは分からん。


 で、そういう信仰って、「自身の無力に打ちのめされている素朴な善意の人」が縋るものなので、「自分に絶対の自信がある人」や「他人を救済することに興味がない人」は靡かないんだとは思う。


 なまじ、「誰かを助けたいが、自分にはその力がない」という歯がゆさを自覚している真面目な善意の人であるが故に、「自分に足りないものを埋めてくれるチートとしての信仰」に手っ取り早さを求めてしまう、みたいな側面はあったのかもしれん。


 准看二人組とは喫茶店で一緒にお茶して、なんか色々話を聞いて、主に自身の至らなさや焦りみたいなものを一通り聞いて、それで結局特に入信とかはせずに和やかに別れてそれっきりなので、彼女らのその後を僕は知らない。もう30~40年前のことなので、今はただ幸多かれとは思う。


 「真面目で」「熱心で」「善良で」「誰かを救うことに奉仕的」な人が、「努力が報われず、成果が出ず、自分の頑張りが認めてもらえず、何なら妨害され、救いたい人々を救えない」みたいなことを繰り返し経験していくとどうなるかというと「どこかに悪が存在するはずだ」と考え始めるのではあるまいか


 そこを「信仰」にすり寄り/すり寄られるのは、「自分について自信を失ってるとき」で、「運動」にすり寄り/すり寄られるのは、「焦りが怒りに転じ、それをぶつけて許される明確な悪がどこかにいるはずだ」という自己正当化に拘泥するようになったとき、かなー、て。


 「信仰」の全てがそうだとも、「運動」の全てがそうだとも言わないけど、個別に話をしてみると、「真面目で努力家で善良な人」が何故?って思うこと結構あるんで、そういう真面目で努力家で善良な人が、「無力感に苛まれたとき」ってのが、本当危ないつか分水稜なんだなー、て。


 簡単に「信仰」に堕ち、「運動」に飲まれ、「陰謀」の旗手になっちゃったりするけど、それもまた「善人が、焦りと無力感と自負と正しさ」をこじらせた結果のメタモルフォーゼかと思うと、なかなかに救われんものがあるよなあ。