文字に「事実」がどこまで反映されているか。「神は細部に宿る」とかあれこれ能書きはあるけれども、こと散文の場合、盛ったり手入れたりされやすいのはまさにその個別具体の細部だったりすることが少なくない。全体の印象やとらえ方、初発の視野や視角といった部分の方がむしろ偽れないものらしく。
「細部」だの「ディテール」だのも、それ自体があらかじめゴロッと放り出されるようなものではなく、それら初発の視野や視角との関係において初めて粒立ってくるものらしく。少なくとも文字の表現、散文系の場合は。
だから、やたらと「細部」だの「ディテール」だの声高にドヤってみせるような人がたは、逆に言えばそれだけその「細部」や「ディテール」において盛ったり手入れたりを「善意」で「無意識」で「正義」としてやっとったりする可能性が高かったりするんだろう、と思って能書きを聞いたり読んだりしとる。