「俺は未来から来た。お前は中国に行くべきだ。」
これは、タイムトラベル設定のSFスリラー『LOOPER/ルーパー』(ライアン・ジョンソン監督、2012年)のなかで、30年後の未来から送り込まれてきた犯罪組織の上司が、主人公の殺し屋(通称・ルーパー)に投げかけるセリフだ。
のちに組織を裏切った主人公は、この助言に従うかのように、中国のグローバル・シティ、上海に移り住むことになる――いまいるアメリカに留まるのでも、かねてから念願だったフランスに行くのでもなく。
かつてアメリカの政治学者フランシス・フクヤマは、冷戦終結後の世界を自由民主主義(リベラル・デモクラシー)が最終的に勝利した「歴史の終わり」としてとらえた。ところが、トランプ大統領の誕生後に行われたインタヴュー(「「歴史の終わり」を唱えた人物が、民主主義の未来を恐れている」 )では、25年前の自分の理論を修正して民主主義の退行・衰退を公言し、その行く末に懸念を表明するようになっている。
フクヤマの変心をより長いスパンで冷静にとらえ直すなら、「戦後の資本主義と民主主義の「できちゃった結婚」生活は破局を迎えた」という認識につながるだろう(W・シュトレーク『資本主義はどう終わるのか』村澤真保呂・信友建志訳、河出書房新社)。
このように自由民主主義が自明であった社会が崩れ始めている昨今、西洋社会で一つの奇妙な思想のうごめきが注目を集めている。それは「中華未来主義(Sinofuturism・サイノフューチャリズム)」と揶揄的・批判的に呼ばれる考え方だ。
中華未来主義はいくつかの思想が流れ込んだ複雑な思想だが、大まかな特徴を手短にまとめておけば、以下のようになる。
西洋社会が掲げてきた人権などの民主主義的な建前は、グローバルな経済競争が激化する現代において、技術革新や生産性向上を阻む「邪魔者」になってしまった。むしろ、人々の権利を制限した権威主義的な資本主義を通じて発展著しい中国やシンガポール(≒中華)にこそ「未来」があるのではないか――。
これは、AI(人工知能)をはじめとするデジタル・テクノロジーの発達、そして、アメリカやEUの地位低下と中国の「一帯一路」構想やロシアの「新ユーラシア主義」の台頭に伴う地政学的な意識の変移とともにせり上がってきた思想である。後述の通り、ある意味で、西洋社会の不安や羨望が「中華」に投影された発想とも言える。
こうした政治体制・経済システムにおける「中国志向」は、文化的・芸術的な表現にも入り込む。すなわち、未来を「中国」のなかに見出すという表現が散見されるのだ。
1990年代にイギリスの大学で哲学を教えていたニック・ランドは、彼のもとに集まった学生や学者たちと一緒に「CCRU(サイバネティック文化研究ユニットの略称)」を立ち上げ、のちに「加速主義(accelerationism)」と名指されることになる思想を展開したことで知られている。
ランド流の加速主義論の眼目は、資本主義をその無限の拡大の彼方に向けて加速することにある。資本主義の過程を加速すること、いいかえれば、資本主義の潜勢力を十二分に引き出しながらそれを疲弊・消尽させることを通じて、資本主義を超える何かにアクセスするための道筋を開こうとする思想で、そのためには人権といった民主主義的価値を軽視することも厭わない。
またそこでは、資本の絶対的かつ暴力的なスピードがーー『ターミネーター』を思わせるーー「未来からの侵入」として肯定的に受け止められるとともに、「新中国(neo-China)」についても興奮気味に論じられていた。
「新中国」とは、西洋世界の衰退を尻目に、権威主義的な資本主義を通じて急激な速度で成長するようになった中国を指す。当時のランドが語った印象的な言葉を引くならば、「新中国は未来から到来する」というわけである。
前世紀末に大学を辞職したランドは、21世紀に入ってから--まさに『LOOPER/ルーパー』の主人公と同じく--新中国の「グローバル資本メトロポリス」上海に移住する。
そこで彼は、中国がすでに加速主義社会に突入しており、未来にとりつかれながら、ハイスピードで変化しているという実感をますます強めるようになり、CCRU流の荒々しい想像力と親中国政府プロパガンダが一体となった奇妙な文章を発表していった(そこには、『LOOPER/ルーパー』について分析した特異な上海論も含まれる)。
さらに、そうした加速主義の思想を拡散するために、ランドは2012年に「暗黒啓蒙(ダーク・エンライトメント)」 と題した文書をインターネット上で公開し、以来、「新反動主義(NRx)」(民主主義国家を解体して、君主のように全権を掌握した(白人男性)CEO率いる企業が小都市国家群を支配するといった未来像を思い描く、反動的な思想運動)や「オルタナ右翼」との関係を強めている。加速主義とNRx、オルタナ右翼は、民主主義的建前を敵視する点で、親和性が高いのだ。
新反動主義と中華未来主義現在、ランドはメンシウス・モールドバグ(シリコンバレーのコンピュータ科学者でスタートアップ起業家、カーティス・ヤーヴィンの筆名)と並ぶ新反動主義の代表的論客として知られるが、彼ら二人を騎士になぞらえるなら、ピーター・ティール(オンライン決済サービスPayPalの創業者で、シリコンバレー有数の投資家)はその王と目されるだろう。
ランドらは、「今日の西洋社会を支配しているメディアと学の複合体」を「大聖堂」に見立て、強く批判する。というのも、彼らによるとそこには、PC(政治的公正を意味する「ポリティカル・コレクトネス」の略称)等の倫理と教義が奉られており、それらは西洋文明に有害な脅威をもたらすからである。
その上で彼らは、大聖堂に対する破壊活動として暗黒啓蒙を仕掛けるのだが、つまるところそれは、ラディカルな変化をもたらして現在の窮状から「西洋」を救い出すためには、技術的・商業的な「脱政治化」(つまり、政治による経済やテクノロジーに対する制約を解除すること)がぜひとも必要であるという、技術革新と生産性向上への欲求に裏打ちされたものとみなしうるだろう。
こうした暗黒啓蒙の思想が、「私は自由と民主主義が両立可能だとはもはや信じていない」というティールのリバタリアン(自由至上主義者)的な確信と親和的なものであることは見やすい。
また、ランドは上海(をはじめ、香港やシンガポールといったアジアの都市)を褒め称えてきたが、そうした言説は、資本主義の生産性を上げるためには進歩主義的な民主政治を犠牲にしなければならないという意志の投影でもあると解釈できる。
技術論を専門とする中国人哲学者の許煜(ホイ・ユク)は、そのような考え方を中華未来主義と呼び、それが基本的に幻想にすぎず、新反動主義やオルタナ右翼の運動もそうしたルサンチマンに満ちた幻想がもたらす不安と羨望の表現にほかならない、と鋭く批判している。
すなわち、〈中国は西洋の科学と技術を抵抗なく輸入してこられたのに対し、西洋では大聖堂に奉納された自由・平等・民主主義・PC等のせいで技術革新が制限され、減速させられてきた〉といった幻想である(「新反動主義者の不幸な意識について」)。
中華未来主義のシンボルとしてのAI
しかし、またもう一方で、暗黒啓蒙や新反動主義が中国に投影する不安や羨望を超えた立場から、中華未来主義への接近を試みているマルチメディア・アーティストが存在する。マレーシア系中国人を両親にもち、香港やシンガポールで育った後、現在はイギリスを中心に活動しているローレンス・レックのことである。
レックのビデオ・エッセイ『中華未来主義(西暦1839-2046)』(2016年)は、中国に関するいくつかの紋切り型をアイロニーを込めた手つきで取り上げた刺激的な作品であるが、最近のインタヴューで彼は、「AIこそ中華未来主義のシンボルだ」と述べている。なぜだろうか。
それはまず、この間、西洋/西側のメディア報道を通じて、「奴らが俺たちの仕事を奪っている」とか「奴らの賃金の方が安い」といった非難の声が、AIや自動化と同じく中国人労働者にも浴びせられてきたからである。またそれ以上に、「深層学習研究用のコンピュータと無名の中国人労働力が、終わりなき労働のためにプログラムされているという点で、多くを共有している」からでもある。
要するにAIは、「数学が得意で、コピー生産と大量のデータ学習に専念しつつ、ゲーム・ギャンブル・激務に耽溺する」中国人という紋切り型のイメージと共通する特徴を備えているので、中華未来主義のシンボルにふさわしいというわけなのだ。
このように「中華未来主義」という概念は、扱い方によっては、私たちのなかにある無意識的な発想をあぶりだす助けにもなる。
中華未来主義に注がれた、こうした醒めたアイロニカルな視線は、AIをめぐる現実政治の覇権的野心を批判的にとらえ返す上でも示唆に富むものだろう。
ロシアのプーチン大統領が、「AIの領域でリーダーとなる者が、世界の支配者となるだろう」と学生に説いたというニュース」は記憶に新しいところだ。キッシンジャー元米国務長官も、「いかにして啓蒙は終わるか」と題された最近の論文で、ロシアや中国と比較した合衆国の立ち遅れを指摘しつつ、人工知能研究を「主要な国家プロジェクト」として優先的に推進するよう米政府に求めている。
言うまでもなくAIは、社会と経済に大きなインパクトをもたらすに違いない。また中国やロシアが技術開発のペースを落とせば、その競争力を失うのは必至だ。
とはいえ、許煜が先のキッシンジャー論文を批評しつつ危惧するように、テクノロジーの加速と革新を通じて、多くの過程で人間の役割が置き換えられていく事態を自明のこととして受け入れ、あまつさえその動きを推進していては、技術システムを前にした無力感の増大とシニシズムの深化を招き寄せはしないだろうか(許煜「啓蒙の終わりの後、何が始まるのか」)。
たとえば、すでに中国で始動している、市民の行動を監視し、格付けする「社会信用システム」に関するアンケート調査で、積極的な賛成意見が三分の二を超えるという結果は、そうした無力感の裏返しでもあるのではないか。
中華未来主義という運動体はどこへ向かうのか「中華未来主義は……多種多様な流れが重なり合った運動体である。中華未来主義は……すでに現実に存在しているサイエンス・フィクションなのだ。」
これは、先に取り上げた『中華未来主義(西暦1839-2046)』の冒頭で流れるナレーションの一部だ。
たしかに中華未来主義と呼ばれる運動体には、中国をめぐるさまざまなイメージや思想が流れ込み、合流と分岐を繰り返している。
民主主義的な建前やPCに縛られることなく、資本主義とテクノロジーを猛然と加速させる「新中国」という見方や、「強力な権威主義的国家と猛烈な資本主義的ダイナミクス」が合体した「中国流の資本主義的社会主義」(スラヴォイ・ジジェク)という見解、またそれらをもたらした「偉大な加速主義者」(許煜)としての鄧小平という解釈、そして新反動主義者が投影する不安と羨望や、トランプ米大統領がたえず口にする中国経済への恐れ、等々。
中華未来主義という「サイエンス・フィクション」は、「すでに現実に存在している」未来をどのように思弁し、どこへ向かおうとしているのだろうか?
この問いは、かつて「テクノ・オリエンタリズム」(「アジア」や「アジア人」を最先端のテクノロジーの担い手として想像し、他者化する=自分とは違う異質な存在に仕立て上げるオリエンタリズムの新版)が投射される客体であり、自ら率先してそれを内面化してきた主体でもあった「日本人」――しかしいまや、そうしたポジションは「中国人」等に移動しているわけだが――にとっても無縁ではないだろう。
一部の加速主義者は、テクノロジーを極限にまで加速することを通じて、資本主義を終わりに導くことができると論じる。
だが、それは短絡的な議論と言うほかあるまい。たとえば、人間の知能を超えた「スーパーインテリジェンス(超絶人工知能)」構想の可能性を完全にしりぞけることはできないにしても、そこには、性急な脱民主主義化と階級格差の拡大という危険性が宿されてはいないだろうか。
最後に、「加速」という語の物理学的な定義に立ち返っておきたい。周知のように、加速度とは、単位時間あたりの速度(velocity)の変化率のことだ。この場合、速度とは大きさと向きをあわせもつベクトルを意味し、単なる大きさを示す速さ(speed)とは異なる。
そして、もし中華未来主義と呼ばれる運動体に可能性があるとすれば、速さを極限にまで推し進めることを目指すのではなく、運動そのものの向きを変え、政治・技術・資本主義に新たな方向性をあたえるような、いまとは別の加速形態をそれが到来させる限りにおいてだろう。
*1:2019年3月8日付の記事。「寝かせておく」こともこのNotesのアウトプットの楽屋裏であることは、これまでも触れてきたと思うが、その「寝かせておく」ことはこのように「おりる」ことを側面援護してくれる作法にもなる、という見本のひとつとしても。