異形の人、とその時代・メモ

 なんというか異形の人というか、そういう屹立した存在というのはその人だけの力で立っているわけではなく、時代の空気みたいなものが支えている面はあると思うのだよな。昔は荒木経惟さんとか美輪明宏さんとか「すごい!」と素直に思っていたけど、時代が変わると神通力が通じなくなってくるというか。


 まあ加藤登紀子さんとか坂本龍一とかの左翼アーティストもそうなのだけど、逆に言えば坂本龍一は「音楽の力」というものを死んでも保持していて、あれだけ党派的な発言をしててもそこを超えるアートの力で評価させてしまうのはやはり、「芸術は長く人生は短い(誤用だが)」ということを感じさせる。


 人間的・人格的なパワーというものは多分その時代の雰囲気みたいなものにその効力がかなり左右されてしまうものなんだなと今更ながら思う。作品力の方が強い。宮崎駿さんの作品がそういうものとして生き残れるのか、時代の波間に消えていくのかはこれからの時代の展開次第かなという気はする。


 逆に言えば、音楽が強いのは「非人格性が強い」からかもしれないと思う。特に彼の作品はインストゥルメンタルが多いし。詞がつくとどうしても人格性が強くなる。ヴェルディのオペラくらいまで時代の荒波に揉まれないと。


 絵画芸術が抽象性を求める方向に進化したのも、音楽の持つある種の「非人格性への憧れ」みたいなものもあったのかなとか。そうなると「絵画のAI化」というのはある種の究極の「脱人格化」現象なのかもしれない。これが映画にも広がりつつあると。


 まあちょっと怖い話ではあるが、要は「人格には価値はない」ということになりつつあるんだろうな、少なくとも商業的には。美輪明宏さんとか荒木経惟さんとかには彼らが生み出すもの以上に「人格のオリジナリティ」みたいなものが評価されていた面があると思う。商業的に。


 「おかまは毒舌」みたいなある種の定型的なパターンもミワさんが元祖だと思うのだよな。それまでのそういう芸人みたいな人は必ずしもそうだったかなと思う。まあ彼らの立場で言いたいことを言えば毒舌という評価は得ざるを得ないとも思うけど。


 人格が社会的に機能するとしたらまああとは政治家だということになるけど、行政はともかく政治というのはそれこそ人格のぶつかり合いなのでそこはそんなには変わらないかもしれないなと思う。ただ「期待される政治家としての人格」みたいなものがどんなものになるかというのはあるけど。日本でもプーチン・ブリゴジン・トランプみたいなタイプも一定は受けるような気がするが、今のところそういうタイプの政治はそうはいない。ハマコーとか小川平吉とかは思いつくけど。