生乾きの化石、の使命

 どうも私が世間の感覚とずれていたなと感じたのは、私にとって江川紹子さんたち専門家はオウム真理教事件で活躍した人なんだけど、この時代を知らなかったり重視しない世代にとってツイッターの人であったり、テレビに出てた人なんですよね。詳細は↓。そもそも期待の大きさ、期待するものが違う。

 三名を揶揄する意図はなく、90年代なんてものは地層はるか深いところのもので、地表からは見えないし、そこにあるものは化石なんですよという話です。三名を化石とは言ってないので念の為。20年前でさえ、実感とともに語れる人々は若いなんて言えない世代だ。

 そうなんですよね、全くその通り。

 その「地表」と「化石」の間に横たわるもの、について、語れる限りは語り残しておく使命が、未だ「地表」に晒されてある生乾きの化石もどきには、あります。 twitter.com/mostsouthguita…

 たとえば自分が20代だった80年代、その20年前は「地層はるか深いところのもの」で「そこにあるものは化石」といった感覚は、正直なかったかもしれない。その20年前、つまり自分が生まれた前後のことを「実感と共に語れる人々」はいくらでもいたし、また頼まずとも語っていたように思う。

 親たちほど年齢が離れていない、でも年上の「おとな」で、日々実際に接する範囲では最も年齢の近い程度の距離感のそれらの人がたの語る「20年前」は、「昔」と呼ぶには鮮やかで、何より自分ごとの感覚と地続きに感じられるものだったから、うざくはあっても興味はかき立てられた。「歴史」ではなく。

 いまの若い衆世代、20代なら20代が自分たちの生れた前後の90年代の世相や同時代感覚を「実感と共に」語られること自体に拒絶感があるだけでなく、その時代を生きていた眼前の生身の「おとな」たちの実存そのものに対しても、自分たちの〈いま・ここ〉と無関係な自明の別もの感、があるのかもしれない。

 先日来、少しTLでも言及されている「ゼロ年代的不連続、ないしは断絶のありようとその由来」みたいなお題ともこのへん、関わってくるのかもしれず。ゆるくしぶとく要検討。