森毅、的なるもの

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 森毅は「一刀斎」などと呼ばれ、あるいはその呼ばれ方自体自認していたのか、いずれにせよある時期までのメディアの舞台では、「京都大学」というブランド力wと「数学」という受験勉強的偏差値的世界観価値観による別格感に、京阪神or近畿都市部的衒学趣味をまぶした一見やわらかでものわかりよさげなもの言いや立ち居ふるまいでそれなりの人気と信頼感を勝ち得ていた存在だった。

 何度か触れたこともあるけれども、一度だけ関西のテレビ番組で一緒になることがあった際、戦争中の抵抗の仕方や各種の抑圧のやり過ごし方について例によっての「ええ加減にいなしてのんべんだらりとさぼっとったらええやないですか」(うまく言えんがとにかくそういうノリ、そういう感覚での発言) 的な、十八番の揶揄的相対主義言説(とりあえずそう言うとく)を繰り出してスタジオのギャラリー(学生など若い衆が主体だったと思う)の大向こうウケを狙っていたのにこちとらムカッときたので、「でもそれって、森さんが当時帝国大学の学生で特権的な立ち位置にいたからこそできたことじゃないですか」(これもうろ覚えだが、意味はこういうものだった) とぶつけたら、それまでの営業ヅラが一変、予期せぬ不具合に遭遇して硬直したヘソ曲がりジイさんのわがまま全開なイヤ~な表情になってあからさまな不機嫌丸出しになったのを未だによく覚えている。だから、このtweetについても、まさにそんな感じだったんだろうな、とひとり納得した。

 「いい加減でもいい」「とにかく気に入らない関係や状況からはデタッチメントで距離を置いて、自分自身の好き勝手が通せるような立ち位置を確保する」的なもの言いを箴言風に繰り出す商売というのは、あの鶴見俊輔なども自家薬籠中のものにしていたわけで、ある意味当時の情報環境で一定の支持と需要のあった立場ではあったと思う。それは「個人」の「自由」が無条件に保証されるべき、という戦後民主主義イデオロギーが極相にまでほぼ達しつつあり、なおかつそれが70年代末からの「相対主義的正義」に裏打ちされて可視化されていた、ひとつの局面でもあったのだろう。

 森毅的なものって大学内アウトローみたいなもので、適度な毒は存在が許容されるみたいなものか。同様のポジションで予備校における牧野剛的なもの「予備校は大学よりアツい人生勉強の場」みたいな物言いもあったかと。双方、消滅した文化のようにも。牧野本はまとめて読んでみたい。


 この手の話だと、90年代に京都大学の学園祭で鈴木邦男を呼ぶ話があり、実行委員会の方針として(新)右翼活動家は呼べないので、格闘技評論家として鈴木を呼び、講演内容には黙認した話。鈴木は専門雑誌に寄稿経験もあるので経歴は間違いではない。この鈴木邦男が参加した90年代の京都大学の学園祭では、オウム真理教の教祖だった麻原彰晃も講演に来ており、内容がオール質疑応答で「今ここで空中浮揚しろ」的な意地悪質問多数で、その場に俗悪なものを感じ、かつ質問に真摯に答える姿勢に共鳴したのが森達也『A』に出てくるハリーポッター荒木浩と。


 あとは外山恒一が『全共闘以後』(イースト・プレス)で述懐しているが、大学内の変わり者、反体制風教員のゼミ生なんかと社会運動の現場で出会うも、ソリは合わなかったと。個性尊重が絶対評価に転じ、身内ノリと結合し、相対的な目線を無くしてしまうためか。