ことばやもの言いが「自分」の制御下にある、という感覚が後退してきているらしいこと、そしてそれと共に、それらことばやもの言いとの関係において初めて「現実」の輪郭が確かめられるという感覚もまた希薄になってきているらしいこと。その結果として、「現実」と「自分」との間が切断されるようになってきているらしいこと。ことばやもの言いを介して媒介されていない「現実」という感覚が支配的になってきていること。
別の方向から言い添えれば、それらことばやもの言いというのが圧倒的に「文字」ないしは文字に準じる「記録されたもの」でしかなくなってきているらしいことも、また。話しことばによって制御されている最も身体的な〈リアル〉に直接関わるはずの水準が日常的に体感できなくなっている可能性も、また。
大文字の概念や観念、それらを指示する記号としてのことばやもの言い、を手もと足もとで取り扱う際の感覚もまた、どこかで「自分」の日常等身大との関係を察知せざるを得なかったはずの契機すらすでに後退しているのが通常設定になっているというか。だからこその「ゲーム」的人文社会系言説の全盛が。そんな環境で「フェミニズム」(だけでもなく)言説が日々再生産されているのだとしたらそりゃそんなもん、それらことばやもの言いをハンドリングしている人がたそれぞれの生身だの実存だのと関係ないところで唸りを上げているだけのことになるのは必然というか。それは、かつて「ディベート」が本邦に入ってきて流行り始めた頃に感じた違和感とも地続きの、そういう主体/身体なきもの言いのありよう。それを良いもの/あるべきものとして称揚する態度なども含めて。
昨今の「コミュ力」をめぐる世間一般その他おおぜいの理解の仕方やされ方などもそれらのなれの果て、地続きの同時代現象という気がせんでもない。