リベサヨ的ダブスタ上等、について・メモ

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 リベサヨ界隈の風土病と化しているダブスタ上等はあれ、中の人がた的にゃ自分たちの「正義」のために当然の対応なんだろう。だからあの人がたの言い張る「ポリコレ」なんてのも、要は自分たちにしたら当然の対応を正当化するための呪文なんだろう。病巣はその「正義」とそれを盲目的に信奉する構造なんだろうが、そういう「正しさ」「正解」をすんなり受け入れてひたすらそのために献身するココロの習慣は、いわゆる宗教やカルトとも基本的に同じだろう。

 ただ、いまどき本邦リベサヨ界隈のそれは「学校」的言語空間&情報環境前提になっている気はする。以前から「学校民主主義」「学級会の正義」的もの言いでそれらを指摘してきたけれども、それこそあの『脱正義論』の地点から20年あまりたった本邦リベサヨ系「市民」運動のその間のありようの変貌変遷についてもまた、きちんとことばにして自省できる下ごしらえが必要なわけなのだが。*2

 「貧・病・争」が、人が宗教へ向かう三大要因てなことが言われてきたけれども、いまどきリベサヨ界隈の「正義」信奉症状はそれらとはまた別の「学校」的な環境、偏差値的な画一的なものさし介した序列化が現実の規範で、しかもそれがある光源 (教師なり教義的な「正義」なり)から一点投射されているらしい。で、それはいわゆる宗教の「神」なり何なりとよく似てるようでいて、実は本質的に違っているというのは、本邦いまどきリベサヨ的「正義」は言葉本来の意味での超越的なものではなく現世のものであること。にも関わらず、妙な普遍性のようなものだけは厚かましく手放していないらしいところだろう。

 ひとつ言えそうなのはその「正義」ってのが、これまでのいわゆる宗教や信心の類と少し違って、「信じる」自分についてのあり方が個体としてそう明快に確かなものでもなさげで、なのに/だからその分、集団/群れの文脈ではその「正義」を過剰に「信じる」身振りが共同的身振りとして憑依してしまうらしい。例によってうまくことばにできないのだけれども、いわゆる宗教やカルトなら「カリスマ」的中心なり教祖なりがあってそこが価値の源泉であり、何より個体個人として英雄にもなってたのに、昨今リベサヨ界隈には「神輿」はあってもそれを信仰信心で「守る」とかそういう発想は初手からないみたいなあたりがどうにも気になるし、何かある本質に関わっているような。普遍ではあるらしいのだけれども、でも「カリスマ」「神」的超越的なものではないらしい、その気配のいやらしさ、かつみっともなさ。

 超越的ならざる普遍性。だから、超越的なものとの関係で自分自身のありようやその限界、矮小さやくだらなさ無力さなどなどあらゆる現世の生きものであるがゆえのある本質を否応なく思い知りながら、だからこそ普遍性に改めて合焦してゆくこともできるはずの経路が存在しないまま、現世のこの自分がそのままで、何ひとつ自省や反省、留保や葛藤などを介することなく、普遍性と地続きのお友だちや仲間のように勘違いすることができるらしい。

 だから、何をどう「正義」として言挙げしようが、それは単なる「神輿」であり「メディア」wに過ぎないから平気で乗り替えることができる。アイテムが移り変わってそのたびに「神輿」も変わるけれども、それがひとまわり盛り上がって飽きられるとポイ、で忘れられる、つまり「面倒をみる」とか継続的(サステナブルwてか?)関係はまず想定されていない。これ、同じく前々から指摘している「おたくの不人情」なんかともどこかで繋がるお題なんだろう。あるいは、あの「ディベート」なんかとも同じで、自分自身が引き受けるべき何ものか、それが思想信条であり信心であり美学であり何でもいいんだが、それを生身の個体としての自分との関係で自覚して制御しようとする自意識があった上で、「政治的」な身振りやもの言いもまた制御可能なものになる、のはずなのに。大文字通俗な「文化」論話法に流し込んでラクしようとするなら、またぞろ例の「宗教なきニッポン」や「個人が自立していない」系のもの言いで丸めちまえるようなものかも知れない。でも、そっちへ行く回路はまた例によって敢えて遮断した上で、もっと「おりた」ところから少しずつことばにしてゆこうとする知恵がいま、最も必要なことのひとつなわけで。

 たとえば、ヤンキーとチャラ男(昨今ならパリピウェーイ系か)の違いは、「地元」(逃げられないと思っている関係)があるかないかに規定されている、という、以前弊社若い衆らと共にひねり出した中間的仮説とある意味同じく、いまどきリベサヨ界隈の「正義」身振り&話法には、そういう「地元」的縛りは初手から否定されている、というあたりのことなどもひとつの足場になり得る。まあ、そのへんもたぐってゆけば、それこそかつてのあのベ平連的な、個人の自由で気が向いた時に参加し抜けるのもまた自由、といった「組織」(ではないと思うんだが、杓子定規に言えば)論が一気に受け入れられていった過程などとも関わってくるんだろうとは思うけれども。

*1:「リベラル」話法&しぐさ、はなぜこうまで違和感持たれてきていて、昨今だといよいよあからさまに嫌われるようになっているのか、問題。あれこれずっとひっかかっているお題の、例によってのひとつの変奏として。

*2: 小林よしのりと同伴的に仕事していた頃の、具体的にカタチにすることができた最初のアウトプット。他人の本をこさえたら売れる、というのはあまりありがたくもない評価として定着しているけれども、これも今でも、そしておそらくこれから先もその時その時代状況において「役に立つ」活字/文字の仕事として残ってゆく可能性があるはず、と信じている。

新ゴーマニズム宣言スペシャル脱正義論

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