現金は必ず持て・メモ

 俺はいま出先の行きつけない大型スーパーで大量の食材を買う任務についたんだぜ。そこはモニタとタブレットが装備されてるハイテクなカートで買い物できるんだぜ。でもそれを使うには会員登録が要るんで、一般客はセルフレジでの会計だぜ。一万二千円分の食材をスキャンするのは面倒だったぜ。が、支払いしようとしたら「現金のみ」と書いてあるのに気づいたんだぜ。いつもの癖でカードしか持ってなかった俺は焦ったぜ。セルフレジでカード使えないとかありえないので店員に毅然とこう言ったぜ。「どどどどうしましょうこれ。ご、五千円だけならポケットに入ってましたが。あ、意味ないですね」


 相談の結果しばらくレジと商品をそのままにしててくれることになり、俺はATMコーナーに走ったんだぜ。でもカード入れにはクレカとSuicaしかなくて、ATMが受け付けるキャッシュカードは財布だぜ。俺は車に走ったぜ。そして家に財布ごと置いてきたのに気づいて絶望したぜ。


 こんなこともあろうかと車には多少の現金を備えていたが、手持ちと全部合わせても500円足りなかったぜ。それくらいどっかに落ちてねえかと思ったが、落ちてねえぜ。しょうがねえから車で財布を取りに行って戻ったぜ。30分ほどレジは「現金を入れてください現金を入れてください」と言い続けていたぜ。


 何が言いたいかというと、流通・小売の電子システムってまだいろいろ過渡期なんだぜ。最後に頼れるのは実物の貨幣なんだぜ。あと慣れない店では油断しちゃダメだぜ。

 キャッシュレス社会だか何だか知らないが、留学生も言うてたが、中国では現金を持ちあるくこと自体、もう習慣としてなくなって久しいんだと。「便利」というのはなるほど、そういうことなのか、とアホな異国の老害ヅラでとりあえずうなづいてみせたけれども、ほんとにそれ、大丈夫なのか、という素朴な疑問も即座に、また。

 ある種のクロウト衆、芸能人だったりスポーツ選手だったり、いずれそういうカタギならざる人がたがムダに高価な高級腕時計やら、金ピカの貴金属製の重たげなブレスレットやらを身につけたがるのは、「何かあった時に」それを外して置いてゆくことで急場がしのげるだろう、という理由だそうで、それは事故で亡くなったひとりのノリヤクが教えてくたこと。

 クレジットカードとは「信用」を前提に持つ事ができる、その「信用」とはどれだけ借金できるかによって保証されている、他の国や社会はいざ知らず、ことこの国においてはその「信用」とは、概ねどんな仕事をしているか、具体的にはどんな会社にどれくらいの年月勤めていてどれだけ給料を貰っているか、あるいは自前で商売しているのならばどれくらい稼ぎがあってどれくらい税金を払って、それをどれくらいの間続けているか、といったあたりのことに関わってくる――そんな話は学生若い衆らによくしていたものだ、うまく通じていたかどうかはわからないけれども。

 鉄道系カードをスマホ(アンドロイドだが)と連携させてキャッシュレスで払えるようにはしている、1年ほど前から。確かに便利は便利だし、必要になれば少しずつ、それこそ1,000円かそこらずつ、webを介してチャージして使う。小銭はいらない。あとは近所のスーパーのチャージ式のカード。これも同じく必要なだけ現金を端末介してチャージして使う。身近なキャッシュレス決済というのはそれくらいだ。クレジットカードは使うけれども、これも使いすぎたらじきにストップかけられて難儀するので、用心しながらでしか使わなくなっている。殊に、例の裁判の間は無収入の借金暮らしだったもので、カード決済はほとんど禁忌だった。

 「財産」や「資産」というのが果たしてどういう手ざわりと共にあるのか、残念ながらこういう野放図な世渡りしてきた以上、世間並みの〈リアル〉すらうまく持てないままだったらしい。株だの何だのも縁がない。現金を身につけて持ち歩くことくらいしか、そういう「経済」がらみの世の中の仕組みとつきあえる機会がないまま、高齢者の人生に突入してしまっている。さて、この先無事にこのまま、終わりを迎えることができるものかどうか。