そこにあるもの、でも/だからこそ「見えない」もの

 使い捨ての日用品、たとえばビジネスホテルに備え付けられてある歯ブラシやカミソリなど、確かに日々そこにあり、便利に使いもしているようなものたち。それらにも、その質の善し悪しやそれらをもたらす技術の革新などが確かにあったはずだが、しかし、ある時期からこっちのそれら「いま、そこにあるもの」に対しては、いわゆる「商品テスト」(かつての『暮しの手帖』的な)のようなモノへの意識の仕方の網の目にはすでに補足されにくい、そういう意味で視野の外の「見えない」ものになってきているような気がしている。

 これはかなり以前から抱いている疑問というか違和感のひとつでもあり。『暮しの手帖』と花森安治のことを戦後の生活文化の変遷の中で考えてゆくようなことを若い衆相手にあれこれ考えてきている中でも、改めて意識的にことばにしようとしてきているところもある。ものとわれわれとの関係、それらが「生活」「暮らし」「日常」といった言い習わし方をされる現実の中で位置づけられているありようの変遷、などの課題と共に。

 たとえば、いわゆる百均に並ぶ品物にそのような「商品テスト」的な意識はなじまないだろう。というか、それらのものに対してはもう初手から視野に入らないだろう。それはかつて益子焼の雑器にうっかり「美」(でも何でも)発見してしまった柳宗悦あたりの意識とある意味裏返しの、日常にあたりまえに存在しているブツに対する意識の構え方の分断に関わってくる。

 数年前、弊社若い衆らとゴソゴソいじってみた「白いトレイ」(スーパーの生鮮食品に使われているアレ)問題なども基本、そういう問題意識とも関わっていた。あたりまえにそこに存在して、日々確かに使い回されているのにちゃんと名づけられないままでいる、そういういまどきコモディティ化した使い捨て系日用品の群れ。あるいはそれは、ご当地にコストコが出きた時、やはり同じように若い衆らと素朴に「何かが違う、これまであったスーパーなどとは違う」という感覚を頼りにあれこれ触ってみたことなどとも、問題意識として連なっているはずだ。

 「消費」というもの言い一発で何もかもひとくくりに「わかったつもりになる」われら年来のココロの習い性もまた、そこにうっかり包摂されてしまっている「そこにあるもの」とこちら側との日々のつきあい方のひとつひとつ、個別具体の「歴史」の痕跡からほぐされてゆかねばならないものになっている。