「記録」の現在・メモ

 大方があたりまえだと思ったり感じたりしているようなこと、はわざわざ「記録」されない。

 それどころか、わざわざ意識されたり見られたりすらされなかったりも。

 ただ、「記録」がそのような記録する者、何らかの主体が必ず関わって初めて成り立つようなもの、だけでもないことも、また。

 殊に、音声や映像、画像の「記録」については、生身の人間が主体として直接関わっての作業でなく、何らかの「機械」「装置」が介在して初めて成り立ち得るような場合が遍在するようになって以来、昨今では主体なき「記録」もまた淡々と行なわれるようになってはいるわけで。

 前から問題にしている、たとえば街頭の24時間監視カメラの「記録」の主体とは、という問いから導き出されるような、それら「記録」の意味、同時代の情報環境における位相の変遷と、そこに当然関わってくるはずのいわゆる「歴史」なり「社会」なりの認識のされ方の否応なき変貌。

 どこかで何かが(誰かが、ではすでになくても構わない)「記録」してるものなんでね?しらんけど、的な感覚の静かな日常化。ドライブレコーダーの普及なども含めて。

 社会とは、われわれが日々生きているこの現実とは、少なくとも文明の位相においては、何らかの「記録」とそれらを一定の約束ごとの上に維持、管理し運用する仕組みを前提に成り立つものである、という認識が良くも悪くもうまく共有されてこないままのところがある本邦においては、さらに。

 文字の読み書きが相対的に普及していた分、何らかの「記録」≒書きつけ、書きもの、が割と普通に遍在してきたところがあるらしかったから、それらを特別なものとして取り扱う感覚も鋭角的に宿ってゆきにくかったのかも知れないけれども。

 主体なき「記録」、少なくともこれまでのように記録する者と記録されたものとが紐付けられて初めて「使える」ものとして存在する、というあたりまえから外れた「記録」のありようが、すでに静かに淡々とあたりまえに存在し続けるようになっているらしいこと。

 その意味では、犯罪捜査における「物証」などと同じような、そのような文脈において「読む」「解釈する」枠組みをあてて初めて「意味」を生じるようになるような存在の仕方を、それら主体なき「記録」はし始めているのかもしれない。

 意識しないから「そういうもの」としてそれ以上意識的に自覚的に関わることも薄くなる。それこそ、かつての録画ビデオの集積のように、録画=記録されているということだけに安心して、それらを再度観る、反復して関わるということを忘れてゆく、物理的にできなくなることも含めて、にも似て。

 「記録」の自然環境化。それは質的にと共に、量的にも。つまり「記録」が「あたりまえ」になることで、わざわざ「記録」の存在を意識しないようになるということでもあるらしい。

 「使える」記録という形態。必要な個所、異なる文脈において引用してゆくための準備を施された「記録」のありようを、映像や画像、音声「記録」にも施してゆくこと。技術的にはすでに試みられ、実装もされてきていることではあるだろうが、それをさらに方法的に、かつ社会的なコンセンサスと共に。

 録画や録音にも、本のような目次その他の「再度、反復的に関わる」ためのインデックスを詳細につけて管理するようになれば、観たり聴いたりする時間が一方的にリニアーにだけ強制されるわけでもなくなる。「通読」だけが本を「読む」ではないのと同じような意味で。

 ならば本、書物の集積はどうか。そこにあることにだけ安心して、それらを再度読む、反復して関わることを忘れる、物理的にできなくなることはないか。確かにある。ただ録画や録音などとは異なるところがあるようにも思うのは、関わる際の時間のファクターと「読む」行為との関係などの問題に関わる。