今の30代以下はもはやナチュラルな感覚だろうけど、40代以上は「日常風景をそのまま記録する」(写真・ビデオ等)事が高コストだった時代を長く経験してるため、写真やビデオを取る事にどうしても特別の意味を重ねる感がある。「介護体験の映像記録」は、したほうがいいように俺は個人的に思う。
— guldeen/父は要介護5/求職中 (@guldeen) 2015年12月23日
ただ、その際でも「撮る側・撮られる側」間の信頼ができてないと、撮影には応じてもらえないのが普通。ましてや、旅先での『観光記念』という名目があればまだしも、「何げない日常の中の光景」を撮る事に応じる高齢者って日本では少数派(俺は自分撮りが若い時から割と好きだけど)だしなぁ。
まぁ「何かを作業する際、後から検証する意味でビデオ・音声記録する」って行動は日本ではあまり無い(除・スポーツ選手)ので、実行してウサン臭がられるのはあるかもしれん。俺は自分の記憶の定着力が悪いのを若い頃から自覚しており、写真もビデオも一時期はかなり撮ってて後の整理が大変である。そういや、ほんの四半世紀ほど昔は証明写真も白黒しか無かったりと、『自撮り』も面倒くさかったんよね。
やはり、だんだん髪が少なくなっているのがよく分かる(汗) pic.twitter.com/4pGfNkPIWY
— guldeen/父は要介護5/求職中 (@guldeen) August 31, 2015
「記録」する・され得る対象としての「日常」というのは、誰もにそのように認識されるためにはそれなりの期間が必要だったはずで、何よりもまずその「記録」するための道具やそれを扱う技術などが介在しないと不可能なわけで、とりあえずは文字による記録だとしても筆記用具やそれを書き留める紙媒体は必須になるし、さらにその上で文字をそのような「記録」のために使うという発想自体が主体の側に宿らないことには話にならない。ここでもまた、例の小泉八雲の挿話じゃないけれども、自分の身のまわりの現実を文字なら文字を介して書き留めるということ自体にまつわってきている歴史性や文化的な背景からの制約の類が「近代」によって解き放たれないことには、それら「記録」と「日常」とが結びつくことは難しかったのだろう、ということになる。*1
文字による「記録」ならば、それが散文であれ、それ以前の定型詩的な表現であれ何であれ、それを操る主体の意志は否応なく介在するだろうし、何よりもそれは「記録」しようと思う時点で自動的に文字がつむぎ出されるわけでもない。主体との関係において初めて、それら文字の「記録」は記録として現前化してゆく。対して、何らかの記録デバイスが「道具」でなく「機械」「機器」として独立性が強くなってくると、それは録音であれ写真の撮影であれ、主体の「記録」への意志が介在する度合いやそのありようからして変わってくるのだろう。ここから、前々から問題にしている「記録」する主体が「記録」そのものから消え去ってゆく過程の問題などにもつながってゆく。
「自撮り」自体は、本邦の場合は今のところ大正期前半あたりまでさかのぼれるようだが、でもそれは鏡の普及などその他の媒体の普及度を補助線にして考えねばならないところもあるだろう。ガラスの銀引きの鏡が庶民レベルに行き渡るようになるのは例の阿波鏡台の普及などを介した「近代」の挿話になるのだろうが、それらによってもたらされた日常経験としての「自分」を見ることが、その後写真機の普及課程での「自撮り」に接続していっただろうことは推測できる。近世以来であろう「のぞく」ことの経験もまた、それら「自撮り」へ接続していった「自分」を見ることの経験の日常化によって、異なる刺戟を受けていっただろうことも併せて、また。
わざわざ意識して「記録」しようと思わずとも、スマホその他のデバイスを介して、それこそちょっとした指先の動きひとつで「記録」はできるようになっている。タイムラプスなどの動画的な仕掛けも準備されるようになった。とは言え、「記録」することへ向かう意識そのものが主体に宿ること、そのようにして主体になること自体はまた、そのような情報環境によってもたらされる利便などとは別の過程として、案外困難なものになりつつあるような気もする。
*1:「日記」の問題もそのような情報環境との相関で、これまで語られてきたような脈絡とはまた別の位相で問題化してゆく必要があるのだろう、それはそれとして。