結構前からだと思うのだが、メディアは「主張」しなくなった。「感情を表出する第三者」を引用することで、読者・視聴者が特定の方向に動機づけられることを狙うようになってきた。その引用を行うことの動機や正当性、そもそも引用元の情報が事実なのか、ということも含めて検証していく必要がある。
— rmsi_isng (@rmsi_isng) 2019年6月28日
フォトジャーナリズムには早くからその構図があったのではないか。また、SNSにおける真偽不明の発言の部分的引用(特に出処を確認できないスクリーンショット)もまた、一つ一つは小さいかもしれないが、全体としては大きな問題であろう(ユーザーによるマスメディアの模倣か?)。
事実報道とは何か。「第三者の表出する感情」も「写真に写った光景」も、確かにそれが何がしかの形で存在するという意味では「事実」ではあるが、どの事実をどのような文脈で引用するかによって、それらの果たす「機能」は大きく異なる。
メディアは「客観的」「中立」であろうとしてこのような手法を採用するのかもしれないが、求められているのはこのような意味での「客観性」「中立性」ではなく、主張の「根拠」となるロジックと、それを支える<第三者が検証可能な>「事実情報」ではないか。
いわゆる「おキモチ」ジャーナリズム、あるいは「おポエム」報道の問題。ジャーナリズムや報道というのはそもそも何なのか、という問いも前提にあるはずなのだが、そのへんはひとまず措いておくとしても、そのジャーナリズムなり報道なりが「文字/活字」の自明の権威に依拠して初めて成り立っていたものかもしれない、というあたりの気づかれ方も、そろそろそれらの現場のみならず、それらを受け取る消費者側においてもあたりまえになりつつあるらしく。
メディアが「主張」する、という考え方も果して正当なのかどうか。それこそ明治初期の新聞黎明期における大新聞と小新聞じゃないが、大上段の政治的な「論説」こそが新聞の本領と考える系譜が、このような「主張」するメディアという枠組みには流れ込んでいるのだと思う。で、その「主張」というのは、「事実」なり「ファクト」なりを伝えることこそが「報道」の本領、という考え方と、実は本質的に反りの合わないものではないだろうか。「主張」には「事実」や「ファクト」は必ずしも必要ないだろう、と。
メディアが主体として立ち現れることを自ら忌避するようになっていった過程というのもあるかもしれない。「客観」報道という言い方などは、それらの過程を後押ししていったエンジンのひとつだろう。