人文系の査読は世間のリテラシー・雑感

 かつて「アカデミズムとジャーナリズム」の対比で語られていたその「ジャーナリズム」の側の〈知〉のありようは、少なくとも日本語を母語とする本邦情報環境における人文社会系においては、いわゆる学術研究的な微視的精緻とはまた別に、やや俯瞰的な視野を持つものとして別途、想定されるものだった。

 それは戦後の情報環境における書籍出版の「人文書」市場とそれを支えた「読書人」のありように規定されるものであり、かつ同時にそれは「報道」を焦点とする稗史的脈絡での〈いま・ここ〉との積極的交錯を可能性としても内包していた。

 最もリゴリスティックで偏狭な意味での「アカデミズム」は、理系はもとより文系においても、本邦近代の学術研究の習い性にもなっていたが、それは戦後の情報環境の変貌の過程で良くも悪くも位相の異なるものになっていったところがあった。

 このへん例によって継続審議なお題なのだが、とりあえず民俗学の脈絡だけに限って言えば戦後、どうして柳田があれだけ「学問」「科学」の態を戦前までのそれとまた少し違う意味あいで強調せねばならなかったのか、というあたりの謎とも関わってくるはず。