本邦人文系煮崩れの背景

 いわゆる人文社会系、まあ、人文系とくくっておいていいのだろうが、いずれ本邦日本語を母語とする環境でそれなりの歴史的経緯と共に「そういうもの」として育まれてきた学術研究およびそれに付随するある〈知〉の拡がりが、ここにきてつるべ落としに本邦同胞世間一般その他おおぜいからの信頼を失墜しまくっていることについて。

 その最も悪目立ちしている局面では、もちろんあの「社会学」が、そして「哲学」「思想」「批評」などの破れ包装紙にくるまれた一連のブツが、あまりにわかりやすくその煮崩れワヤ具合を露呈してくれているのは確かなのだが、しかしことの本質、問題の核心はそれら悪目立ちの部分だけでもない。と同時にまた、それら悪目立ちの部分を身にまとってメディアの舞台その他で顔も見てくれもさらして能書き並べている、あんなクズそんなボンクラ個体それぞれに還元されていい問題でもないこと、言うまでもない。

 そう、言葉本来の意味での構造的問題、どこの誰が、あるいはどういう組織なり団体が悪の根源であり、そこさえ潰せば事態は好転するといったものではないのだ、これまだ改めて言うまでもなく。

 学術研究ガクモンといったたてつけでインデックスつけられているから、じゃあその卸元であるはずの大学が悪いんじゃないのか――そういう見立てもまあ、わからなくはないし、全くの的外れというわけでもない。あるいはまた、テレビやラジオ、新聞や雑誌のみならず、昨今は頼みもしないのにweb介した情報発信、SNSやら何やら入り乱れての芸能人まがい、有名人の世渡りを臆面なくやらかすそれら知的ポテンシャルの高いことが売りの人がたが日常化し、日々そんな顔や名前を見せつけられているゆえ、そういうメディアのありよう、昨今の情報環境が悪いんじゃないか――こういう視点もまた、一理ありそうだし、これまた一面の真実を含んではいる。●●学も、大学という場所も、悪目立ちして恥じるところもないどころか得手に帆をあげるドヤ顔の手合いも、みんなそれぞれに悪いし責任あるし、人文系の信頼失墜煮崩れの現在に棹さしていることは確かである。

 けれども、案外忘れられているのは、何よりこちら側、そのような人文系ベースなり由来なりのいわゆる〈知〉一般、世の中とニンゲンのことをできるだけ包括的に「わかる」に至りたい、そんな少なくともマジメでけなげな営みに対して、まさに「そういうもの」として仰ぎ見、リスペクトし、余力あれば自分もまたそれらの営みの一端に利するようなことの当事者になりたい――まあ、そんな「〈知〉のおたく」(浅羽通明)的マインドも含めたある種のその他おおぜいの、そのありようもまた大きく煮崩れ変わってきていたということでもあるらしい。

 人文系の学術研究、「教養」とされてきたようなものに対する読み方受け取り方の変遷。おそらく、これから先、どんな形であれかつての人文系教養のようなたてつけでものを読んだり考えたりしようとする際に、まず最前提の認識として持っておかねばならないOSのようなものとしても。